生き方への目覚め ある講演会から (後編ー3)

大脳の発達がもたらしたもの

 これまで繰り返し述べてきましたように、人類社会は今やいろいろな面において行き詰っています。では、その根本の、さらに根本の原因は何かと考えると、人類を他の動物から最も際立たせている特徴、すなわち、発達した大脳であると言えるのではないかと思います。発達した大脳の働きにより、バラバラ観、科学的で合理的な考え方、そして、エゴイズムも出てきます。

 

 私たちの宇宙には無数の星や星雲などがあります。それらは実に規則正しく運行し、互いに循環しながら見事に美しく調和しています。また、自然界では無数の鉱物、微生物、植物、動物、太陽、月、水、空気、川、海、空、雲、雨などが互いに循環し、補い合いながら、これまた見事に調和しています。

 

本能だけで生きている動物は、自然の中で周りの環境と一体となり調和して生きています。ライオンが鹿などの草食動物を食べるなど、一見、弱肉強食の世界であるかのように見えることもあります。しかし、それは表面的な観方であると言えましょう。ライオンはお腹が一杯の時には、鹿などには目をくれようともしません。必要以上には食べないのです。また、鹿などの草食動物は、もし、ライオンがまったく食べなければ、数が増えすぎて自ら滅びてしまうと言われています。鹿などの草食動物の生存と繁栄にライオンなどの肉食動物の存在が不可欠なのです。さらに、ライオン同士が大量に殺し合いをすることなど絶対にありません。そうなれば、すべてのライオンが絶滅してしまうでしょう。このように、本能だけで生きている動物は、自然の中で周りの動物や植物、そして、環境と一体となり調和して生きています。

 

それに比べて、発達した大脳を持つ人類はどうでしょうか。目先の都合や欲望によって、自分が食べる食物や飲み水に毒を入れ、自分が吸う空気を自ら汚染し、生きるのに不可欠な自然環境を汚染し破壊しています。そして、同じ人類同士が大量に殺し合いを続けています。このように見てくれば、人類全体の生き方が根本的に変わらなければ、いずれ人類が絶滅することは明らかではないでしょうか。

 

 これは私だけの妄想ではありません。世界的の知識人の中には、このままでは人類は近いうちに滅びるのではないかと言っている人が結構多いのです。明らかに破滅の方向に向かっていると言うのです。しかし、これらの方々も「何とかしなくては」ということは言っていますが、「どうしたら破滅から救われるのか」という具体的方策は誰も言っていないようです。

 

生物は何十億年もかかって単細胞から人類まで進化してきました。そして発達した人類の大脳は確かに他の動物との生存競争においては大いに役に立ったと思います。しかし、今や人類は発達した大脳を持つがゆえに、決定的とも言える行き詰まりに直面しています。もはや、これまでの考え方の方向性、あるいは、同じ次元の上でいろいろと工夫しても、この行き詰まりを超えることは不可能だと思います。この人類史上かつてない危機を乗り越えるためには、これまでの人類社会の進歩(?)の方向性を根本的に変える新たな考え方、すなわち、従来の発想の次元を超えた新しい発想が必要なのです。

 

果たして人類は次の進化の段階はありうるのか  

ある意味で、ここまで人類社会が進歩してきたことは認めるにしても、今や人類社会は決定的な死に至る病の末期症状の一歩手前にあると言ってよいでしょう。

では、果たして人類の次の進化の段階はありうるのでしょうか。それとも、ここが人類の進化と歴史の終点なのでしょうか。そういう段階に私たちは立ち会っています。宇宙の歴史の中でも、地球の歴史の中でも、生物進化の中でも、人類の歴史の中でも、私たちはそういう特殊な歴史的な時代、あるいは瞬間に立ち会っているのです。

 

私自身は、確かに、人類はここまで行き詰っていますが、これが人類の進化と歴史の終点ではなく、今の時代は次の段階に移る一歩手前の段階だと考えています。私はいくつかの事実からそのように考えているのです。

過去の自覚を得た人、すなわち、聖賢の方々の体験を記録した本を読みますと、自覚にいたるまでに、ほとんどの方々がほぼ共通な過程を辿っているようです。こころの苦しみの超克、あるいは、本当の生き方を真剣に求めに求め、ついに行き詰って、散々もがいた果てに真実の世界を発見しています。

これは一例ですが、似たような事例はたくさんあります。個人的にも社会的にも、どうしようもなく行き詰った時に、そこに至るまでのことを徹底的に反省して、逆にそこから見事に脱して、大きく飛躍することができたということは往々にしてあります。

 

また、多くの病気はこころの使い方や生活のあり方の間違いによって生じ、悪化してゆきます。しかしながら、手遅れにならない限り、散々その病気によって苦しんでも、もし、それだからこそ、これまでのこころの使い方や生活のあり方を反省する気持ちが起これば、それらの根本的な間違いに気づくことができるでしょう。そうすれば、その間違いを正すことによって、かならず病気を治し、健康体になることができるはずです。

このように、病気になることによって、正しいこころの使い方、生活のあり方に気づくこともできるのです。簡単に言えば、よほど素直な人は別として、多くの人間はどんなに大切なことであっても、本当に切羽詰まらなければ、本気になって考えようとはしない、とも言えるのではないでしょうか。

 

(もちろん、まだまだ大丈夫と思っていて、気が付いた時にはすでに手遅れということになります。また、こころの使い方や生活のあり方の間違いによって生じ、悪化している病気を、それを反省し、正すことをしないで、病気は他人である医者や薬によって治るものと考えていれば、そのことによって、一時的に病気が治ったとしても、いずれ再発したり、何らかの形でさらに質(たち)の良くない病気として現れてくる可能性は大きいでしょう。根本の原因を取り除くことをしなければ、根本的に病気が治ったとは言えません。)

 

人類社会の行き詰まりの意味

これまで述べてきた例と同じように、私は、人類社会も本当に行き詰らない限り、特別に素直な方々は別として、私たちはなかなかその事実に正面から向き合い、本気で考えようとしないようになっているのではないかと思います。逆に言えば、今の行き詰まりがあることによって、私たち人類がその事実に正面から向き合い、それを乗り越えようとするなかで、真実のあり方に気がつき、そして、底力を発揮することができるのだと思います。つまり、このままではいけないという絶体絶命の境地に立った時、私たちは文字通り本気になれるのだと思うのです。そして、本気になった時に、これまでの間違いもはっきりと自覚できて、同時に、それを越えるための次元の異なる発想が湧き出てくるのだと思います。

 

(もっとも、「自分にはできない」あるいは、「自分がやることではない」などという諦めや無関心の方もいらっしゃることも事実です。それこそ仕方がないことかもし、れません。しかし、もし、「自分にもできる」ということであれば、どうでしょうか? 私は「このような時代に生きているからこそ、自分にも、あなたにもできる」と申し上げたいのです。)

 

宇宙は進化し続けている

これは逆に言えば、この宇宙が人類に与えた試練というよりも、人類が本当のことに気がつくための絶好のチャンスを与えてくれる、とも言えるのかもしれません。宇宙の仕組み自体がそういうものではないかと思います。

この宇宙はビックバンによって始まったのだそうです。最初は物質が生まれ、それから生命が誕生して、最終的に人類が誕生していくわけです。これから述べることには異論があるかもしれませんが、その進化の様子を少し大きい目で全体的に見ていきますと、生物が飛躍的な進化をするという時期があるのです。その飛躍的な進化がどういう時に起きているかというと、必ずその前に、そのままではもう絶対やっていけない。絶滅だというような絶体絶命の危機に直面しているのです。そのような時に、なぜかその危機を超えて大きな飛躍的進化が起こっています。そして次の進化の段階に進んで行くのです。

 

この宇宙には、地球と言ってもよいのですが、はじめは「物質」だけが存在しました。そこに生物が誕生しました。それが植物や動物に分かれます。ここでは人類の進化の過程を考えるので、動物について考えましょう。動物が進化していく中でついに類人猿が生まれます。そして、類人猿のあるものが人類に進化したと言われています。

しかし、私は、恐らく類人猿までの動物と人類というのは次元が決定的に違うのだと思います。それはどういうことかと言いますと、例えば動物は物質でできています。しかし、動物は物質であると同時に、物質とは次元の異なる要素「生命」を持った存在です。それと同じように、人類は物質であり、動物であると同時に、次元の異なる要素「こころ」を持った存在であると言えるのではないでしょうか。

 

人類は動物とは次元を異にする「こころ」という要素を持っています。それは単なる知的生命という意味でもありません。もちろん、人類は動物の中から進化して生まれてきたことは間違いないのですが、私は人類を単なる動物の一種であると考えていません。

もちろん、従来の常識どおりに、人類を類人猿に属する動物であると考えてもよいのです。私が言いたいのは、たとえそうだとしても、人類は「こころ」を持つ非常に特殊な存在であるということです。

 

宇宙はどこに向かって進化しているのか

私は宇宙というのはある一定の方向に進化していると思います。なぜそう思うかというと、この宇宙の外に宇宙はありません。ですから、宇宙の外から何か力を加えられていることはないのです。したがって、最初のビッグバンによる力によって、あるいは、ビッグバンを引き起こした何かの力だけによって、宇宙はある一定の方向に進み続けているということです。これは単なる物理的な力や方向だけでなく、宇宙の「内容」もある一定方向に進み(進化)し続けているということです。

 

では、物質・生物(動物)・人類という進化(簡単に、「生物の進化」と言っても大筋では違わないのかもしれませんが・・・)は、最終的にどんな方向に向かっているのでしょうか。私は、単に生物が生存して、その数が増えていくということだけが生物進化の方向ではないと思います。もし、生存がより確実で数が増えていくということだけが進化の目的であれば、人類よりも昆虫の方がよっぽど成功しています。そして、昆虫よりもバクテリアの方が成功しています。

 

つまり、単細胞生物であるほうがよっぽど安定していたというわけです。では、なぜ、そこから多細胞生物になり、より複雑な生物が誕生してくる必要があったのでしょうか。私は、生物進化の方向はダーウィンが言うように生存や数だけを確保していくというよりは、その中に、最終的には「自覚を持った存在」を創り出していく方向にあるのではないかと、推察しています。

 

これから述べることは私の仮説ですので、そのつもりで聞いていただきたいのです。動物の世界は完璧に調和した世界です。彼等は大脳がないために、本能だけで生きていけます。その本能というのは自然の法則(あるいは、宇宙の法則)に沿っています。ですから自然や周りの動物や植物と調和して生きているのです。ただ、動物にはそれを自覚する能力はありません。ただ調和して生きているというだけです。

 

私は、擬人化して言えば、恐らく宇宙は、「この宇宙はこういう宇宙なのだ」「自分は何者だ」ということを「自覚する存在」を自分自身で生み出したいのではないかと思います。

 

すでに少なくとも何千年も前から、お釈迦様をはじめ幾多の先人、聖賢が「真実の世界」と「真実の自己」を見出しています。こういうことを考えると、人類が単なる動物の一種であるとは思えないのです。宇宙はある方向へ進化し続けており、気の遠くなるような長い進化の過程を経過して、ついに「こころ」を持った人類が登場し、その中からまだまだ数は少ないとしても、「自覚する存在」が生まれてきているということだと思います。とすれば、その進化の方向の先にあるのは、もっと多くの「自覚する存在」が生まれてくるということでしょう。そして、さらにその先にあるのは「全人類が自覚する存在」になるということではないかと思われます。

 

もちろん、宇宙の意思というのは誰にも分からないと言われれば、それまでです。しかし、私は私自身の体験から、本当は一人一人が頭での操作ではなく、自分の心を澄ましていけば、この宇宙の意思は自分の奥にちゃんと感じられるのだと思うのです。

このように言えば、それは難しいと言われるかもしれません。しかし、そう言いながらも、多くの方が「自分は何のためにうまれてきたのか」「自分とは何か」「この世界とは何か」というような疑問を一度ならず持ったことがあると思います。その疑問を抱いた自分というのは、結局、宇宙の進化の結果生まれてきたということを考えれば、それを単なる気まぐれや思いつきとするよりも、宇宙の意思は「自覚する存在」を生み出すことにあると言っても、可笑しくないのではないでしょうか。

 

「なぜ」と「何のために」

では、「万物の霊長」と言われ、進化の最高段階にいる人類がなぜ自分を苦しめ、他を苦しめ、欲望に振り回され、醜い争いをしているのか、どうして、今ここまで行き詰っているのでしょうか。人類はこれまでに素晴らしい文化を創り出してきました。また、人類の歴史の中には、そして、私たちの日常の生活の中にも、素晴らしい人間性や人間愛が発露する場面が多々あります。しかし、一方では、苦しみと破滅への流れを確実に辿っています。その原因は発達した大脳があるためである、ということは前に述べたとおりです。

 

「なぜ」こういうことが起きるのか。この「なぜ」という言葉を私は次のような意味で使っています。例えば、熱が出ます。「あ、熱が出ちゃった」と思います。普通は熱は悪いものと考えて薬を飲んだり、お医者さんに注射を打ってもらったりします。何もしないという人もいるでしょうが、熱は悪いもの、風邪は悪いものと私たちの多くは思ってきています。

 

ある時期まで自分もそう思っていました。ところが、ある時ふと、「人間は何のために風邪を引くのか。何のために熱が出る必要があるのか」と考えました。「なぜ」というより「何のために」というふうに問いを変えたら、「風邪は自然治癒力の一つである。自分の体を調節し、不都合なところを治すために熱が上がる必要があるのだ」という全く正反対の結論が出たのです。

その後、野口整体の創始者である野口晴哉先生の『風邪の効用』という本を読んで、自分の考えが正しいことが確認できました。疲労が蓄積したり、体の歪みなどによって体の機能が落ちてくると、体の疲労や歪みを正そうとして自然治癒力として風邪を引く。熱は悪いものと考えて、せっかく上がった熱を無理やり下げれば、かえって自然治癒力自体の働きを妨げることになるのです。つまり、風邪は悪いものではなく、必要があって引くのだということです。

 

それと同じように、人類は「なぜ」自他を苦しめているのか。「なぜ」と考えると、発達した大脳があるから、国家エゴイズムの対立があるから、という答えが出てきます。しかし、人類は「何のために」自他を苦しめ、破滅に向かっているのか。このように、あえて「何のため」と考えると、今まで見えなかったものが見えてくると思うのです。

 

苦しみと行き詰まりの意味するもの

前にのべたように、釈迦をはじめとする多くの聖賢たちは、文字通り、切羽詰って、もうこれ以上どうすることもできない、という危機的状況において、奇跡的に、「存在の真実」の自覚を得ています。また、生物進化の歴史を概観すると、飛躍的な進化は絶対的な危機に直面することを契機として起こっているようです。絶対的な危機的状況を乗り越えるためには、次元の異なるほどの新しい形質や機能を獲得する必要があったのでしょう。

 

人類が誕生したきっかけも同じような危機的状況を契機としています。人類の先祖はチンパンジーのようなサルだったと言われます。気候の急激な変動によって、そのサルたちが住んでいた森がしだいに消失していきます。そして、ついに、そのサルたちは何百万年、何千万年も住み慣れた安全な森の中の安全な樹上の生活を離れて草原に出て行かざるを得なくなりました。それによって、本格的な二足歩行が始まり、それに付随して、急速に大脳が発達していったと言われています。二足歩行や大脳が急速に発達するためには、当然、飛躍的な形質や機能を獲得する必要があったはずです。

 

これらの現象を偶然によるものとするのか、それとも宇宙、あるいは、生物の進化の仕組みとして必然と捉えるかは意見の分かれるところでしょう。しかし、私はそれは進化の仕組みとして組み込まれているのではないかと考えています。その根拠としてはいろいろと挙げることができますが、宇宙や大自然の見事に調和した姿を見ると、それをもたらしている力、あるいは、法則が偶然に存在しているとはとても思えないからです。もし、そうであるならば、その力、あるいは、法則が生物の進化の仕組みに組み込まれていないはずはないと思うのです。

 

現代の危機を超える力

このように考えてきますと、現代の人類社会の危機的な状況にも一つの大きな意味があると思えてくるのです。繰り返しになりますが、この人類社会の危機の根本原因は、発達した大脳による「自他をバラバラと観る」バラバラ観、バラバラ観に基づく科学的思考法、そして、それらから出てくるエゴイズムによるものです。簡単に言えば、「存在の真実」を正しく観ていないためだと言えます。

 

人間は何のために苦しんでいるのか。誤解を招く言い方ですが、ある意味では、人間は必要があって苦しんでいるのだと思います。また、逆接的な言い方ですが、私は、人間は徹底的に苦しまなければ、本当のことに気がつかないのではないかと思います。こう言ったとしても、決して苦しみを肯定するという意味ではありません。そうではなく、逆に、本気で苦しみを乗り越えようとして、その苦しみの根本的な原因を探り出し、それを解消することによってこそ、すべては不可分一体であるという「存在の真実」を自覚して、苦しみを乗り越え、真実の人生を生きることができるのだと思います。

 

人類社会全体についてもまったく同じです。このかつてない人類社会の危機的状況に直面することによって、本気にそれを乗り越えなければという方々が世界中から現れてきます。本気になれば、当然、一時的、あるいは、部分的な解決でよし、とすることはありません。本気になって乗り越えようとすれば、当然、根本的な解決を目指さなければならない、という考えに達します。そうなれば、この危機の根本原因を探り出し、それを取り除くことによってしか、この危機を乗り越えることはできない、ということに思い至るでしょう。

このような過程を経て、根本原因である「バラバラ観に基づくエゴイズム」を探り出し、その原因を解消する新たな方策が打ち出され、実行されることによって、この危機を根本的に乗り越えることができるのだと思います。こうして「存在の真実」に対する人類の全体的な自覚のレベルがアップしてゆきます。

(環境破壊や戦争によって人類が破滅する可能性は一応なくなるでしょう。しかし、すべての人類が自覚を得るまでには、長い年月がかかるでしょう。そして、戦争などの大きな争いは起こらなくなるとしても、小さな争いや個人的ないざこざなどは、まだまだ続く可能性はあるでしょう。)

 

人類は進化している

しかし、いったん、人類社会全体の進む方向が「存在の真実」を基盤とする方向に定められたならば、その時にこそ、「存在の真実」に基いて、大脳が正しく使われて、新たな科学技術が生まれるのだと思います。また、急激に社会体制も「存在の真実」に沿ったものに変革されていきます。そうなれば、人類は何千年、何万年の長い「バラバラ観」という迷いから覚めて、人類の全体的な自覚のレベルが急速に上がっていくことが予想されます。

このような経過を経て、すべての存在は不可分一体であるという「存在の真実」を新しい方向性とする新しい人類社会が生まれるのだと思います。進化ということから言えば、自覚を得た人類、すなわち「新しい人類」が続々誕生してくることになるでしょう。

 

人類はその進化の方向として、自ら本当の真実の姿に気がついて、全ての万物と調和して生きていくためにも、「何のために私たちは今こんなに苦しんでいるのか」ということを、今こそ痛烈に自己反省する必要があります。

では、宇宙は、間違いを犯しやすい発達した大脳を持った人類など創らないで、本能だけで自然万物と調和していける動物を進化の最終段階とすればよかったのではないか、という考えもあると思います。しかし、私は、前に述べましたように、宇宙は自然万物と調和して生きる「自覚する存在」を創りたい。そのためにこそ、わざわざ、間違いを犯しやすい発達した大脳を持った人間を生み出したのではないか、と思うのです。

 

人類社会未来に光を見る

「陰極まって陽に転ず」という言葉がありますが、実は、陰が極まる以前の段階ですでに陽に転じはじめるのではないでしょうか。今行き詰っている世の中をよくよく観察してみると、世界のあちこちで、必ずしも宗教者だけでなく、名前の知れた知識人だけでなく、ごく平凡な市民、会社員や主婦の中から段々新しい生き方をしなくてはいけない、という人たちが段々増えてきています。

 

私の進化の仮説が正しければ、この人類社会未曾有の危機に直面することによって、宇宙の進化の仕組みに沿って、必然的に世界中のあちこちに、不可分一体の「存在の真実」に気がつき始めた人々、そして、それを基にした、まったく新たな考え方が続々と生まれてくるのは当然のことである、と思うのです。(その意味では、現在の行き詰まりの状況について、できるだけ多くの方々がその事実を知るということが何より重要だと思います。)

 

「日本に脱エゴイズム国家の理想を掲げよう」という考え方は、その中の一つだと思うのです。私自身は、この考え方は今の段階ではこの人類社会の危機を根本的に乗り越えるためのもっとも有効な考え方だと思っています。現行日本国憲法は、従来とはまったく次元の異なる発想から出た「脱国家エゴイズム」憲法です。私の考え方は現行日本国憲法発想の基盤とまったく同じです。その現行日本国憲法の精神を能動的に解釈し、積極的に活かしていこうというのが、「日本に脱エゴイズム国家の理想を掲げよう」という私の提案です。

 

しかし、病気の例でお話ししましたように、もし、私たち一人一人が、事実をよく知らなかったり、知っていても何とかなるだろう、自分には関係のないこと、自分には何もできない、そうなるのは仕方のないことなどと、無知や根拠のない楽観主義や無関心、悲観主義などに陥っていれば、そのうちに手遅れになりかねません。そうなれば、この宇宙が生んだ大傑作である人類は、結局、異常に発達した大脳を持つ「狂ったサル」でしかなかったということになるでしょう。

しかしながら、私は決して無知の楽観論ではなく、人類の未来に大きな光を見ています。それは、私は人間というものは最終的に信頼するに値する存在だと確信しているからです。(終り)

 

 

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2008年12月5日金曜日