福島の原発大事故から見えてくるもの (前編)

 福島の原発大事故から見えてくるもの (前編) 

 

                                       ある講演会の記録より

 

人類社会の行き詰まりと福島の原発事故

 私は2007年に『国の理想と憲法――国際環境平和国家への道』という本を出版いたしました。私は22歳のときにこの考えに出会いました。それ以来40年以上思索を重ねてまとめ上げた本です。

 

 現在世界は、戦争・紛争・テロ、環境問題・食料不足・貧困・飢餓、あるいはエネルギー不足などいろいろな困難な問題で行き詰まりに瀕しています。かつてない危機を人類社会は迎えています。

 

 また、その中で日本においても環境問題だけではなく、イジメ、不登校、学級崩壊などの教育問題、また、若い人たちを見ていましても、この社会において、手ごたえのある生きがいが持てないという人が多いようです。もちろん頑張っている若い人たちもいますけども、全体としては非常に無気力な傾向が見られる。これは、日本の将来にとっても非常に憂うべきことだと思います。

 

 その他、日米同盟を強化して日本がアメリカと一緒に戦争に参加するという方向性も段々傾向としては強くなってきております。その中で、あらためて日本の将来のキーポイントとなる憲法を果たして改正すべきかどうかなど、いろんなことで日本も行き詰まりに来ているようです。

 

 この人類史上かつてない危機は最近始まったのではありません。米ソが人類を数十回も皆殺しができると言われた数万発の核兵器を保持し、全面核戦争の可能性という極度の緊張状態の中で互いに対峙していた数十年に渡る冷戦時代には、まさに人類の生存そのものが危機に瀕していました。

 

 幸いにも、ソ連の崩壊で冷戦は終わりを告げました。しかしながら、以前ほどの緊張状態はなくなりましたが、依然として、米ロが多量の核兵器を保持しております。その後も、米ロだけでなく、中国をはじめとして核兵器を保持・増強する国々が増えています。確かに、全面核戦争の脅威は当面なくなったと思われますが、核戦争の危機は必ずしも去ったわけではありません。

 

 それに加えて、30年ほど前から地球規模の環境破壊の問題が大きく浮上してきました。このままの形態で生産活動と経済成長を続けていくと、将来この地球環境そのものが崩壊し、人類の生存そのものが脅かされかねないということが分かってきたのです。

 

 私は青年時代に私たちは自分たち自身を滅ぼそうとしてしまうかもしれないということを知った時に「人間は何と愚かなのだ」と大きな衝撃を受けました。同時に「人間は絶対そんな愚かな存在であるはずはない。人間はかならず自らの過ちに気がつき、自らの手でそれを改めて、みんなが幸せで平和な世界を実現することができるはずだ」と思いました。それ以来、日本および世界の行き詰まりを解決し、幸福で平和な世界を実現するということが私の一生のテーマとして思索を重ねてきました。

 

 その思索の主なテーマは、人類社会の行き詰まりを解消するために、人類社会が行き詰ってきたその一番の根本原因を見つけ、それを取り除くにはどうしたらよいかということです。このようにして、まとめ上げたのが「国の理想と憲法」という本です。

 

たびたび警告されていた原発の大事故

 この本の中では、日本を含めて人類社会全体が行き詰りの状況をいろいろな面から説明しております。原発事故の危険性についてもかなり詳しく書いております。

 

 今年の3月11日に福島第一原発の事故が起こってから、すでに2ヶ月ほど経過しましたが、当日我が家も震度6弱という大きな揺れを感じました。その後しばらくして、この原発事故の報に接したわけですが、私がまず最初に感じたことは、「やっぱり起こってしまった」ということです。その時の心境を表すとしたら、まさに「無念」という言葉しか浮かんできません。

 

 というのは、私はすでに4・5年前にこの本の中で、原発事故の危険性が非常に大きいこと。そして事故が起こるとすれば、このような形で起こるに違いないということを書いております。まさに、その通りのことが起こってしまったのです。

 

 実は私自身、自分の予想が当たったということに、逆にとても戸惑いを感じました。それはどういうことかと言いますと、私は原子力関係の専門家ではありませんし、社会科学の専門家でもありません

 

 私はかつて米ソが互いに数万発もの核兵器を擁して対峙するという人類史上かつてなかった危機的状況の中で、「核のない世界」を実現するにはどうしたらよいのかということを真剣に考え始めました。そういうことから核兵器や原発に関してはいろいろと調べ、世の中にも発信してきました。

 

 この『国の理想と憲法』という本をまとめるに際して、あらためて関連するいろんな分野の本を読んでみました。 これまでに原発関係の本はおそらく数十冊は目を通しているとは思います。それらの本を読んであらためて思ったことは、すでに数十年前から、数は決して多いとは言えないまでも、真面目な研究者や心ある識者によって、科学的な知識や研究に基づいて「原発は非常に危険性である」ということが継続的に警告されてきたということです。

 

 それらの警告にも関わらず、とうとう今回のような大きな原発事故が起こってしまったのです。私は自分たちはいったいこれまで何をしてきたのかと改めて思い愕然としました。

 

 これまでいろいろな人が原発の危険性について熱心に警告してきました。もちろん、それらの人たちの警告に耳を傾け、懸命に脱原発への声を挙げ、活動してこられた多くの人々がいらっしゃるわけです。こうした努力や活動にも関わらず、今回大きな事故が起きてしまいました。

 

 ということは、全体としてはそれらの警告に本気で耳を傾け、それに基づいて積極的に行動する人々がまだまだ少なかった。その結果、この日本を動かしていく決定的な力になり得なかったということではないでしょうか。

 

福島原発事故の本質を探る

 すでに福島において大きな原発事故が起きてしまいましたが、このようなことを二度と起こさないためにも、私たちは今こそあらためて「本気で考え、本気で行動する」ということの重要性を問い直してみるべきだと思うのです。

 

 先ほど申しましたように、私は原発関係の専門家ではありません。そういう面では全くの素人です。ただ、少なくとも4年前の時点では、『国の理想と憲法』を執筆するためにいろいろな本を読んで勉強をしたおかげで、原発に関しては一般レベルの人たちよりは詳しかったと思います。

 

 ところが、福島の原発事故が起こって、テレビ、新聞、インターネット等でいろんな人が原発について発言されております。いままで声が小さかった人の声もかなり大きく取り上げられるようになっています。したがって、これからお話申し上げることは、皆さんも、もうすでに十分ご承知のことが多いのではないかかと思います。

 

 そうではあるのですけども、改めてもう一度それを確認にしながら、問題の本質を探って行きたいというのが今日の講演の主題なのです。

 

原発の安全神話が覆された

 まず、ここまではっきりしてきた最も大きなことは、電力会社と政府、あるいは経済産業省が、これまで原発は絶対安全だと言ってきたこと、原発の安全神話が完璧に覆されたということです。

 

 それに付随して、これまで電力会社が嘘に嘘を重ねていたということがはっきりしたということですね。ということは、これから東京電力、中部電力、あるいは関西電力などの電力会社が何を言おうと、信じきれないものがあるという状況になってきたということです。

 

 簡単に言えば、私たちは国からも電力会社からも騙されてきた。言葉を変えれば、完全になめられていたんだなということです。分かってはいたことですけれども、あらためて非常に悔しい思いをしております。

 

 それから、東電や政府関係の発表において「想定外」という言葉が非常に多く使われましたね。これについてはいろんなことが言われていますけども、私のような素人でさえもちょっと勉強しただけで、こういう事故が起こる可能性があるということを「想定」できたわけです。

 

 このように素人にも分かるようなことを、専門家と言われる人たちが、想定外という言葉を使うのはいったいどういうことなのでしょうか。

 

 実は、私も原発については素人なのですが、以前は一応理系の研究者でした。その立場から言えば、専門家が想定外という言葉を乱発するのは非常にみっともないと感じてしまうのです。なんとか言い逃れをして、これからも原発を続けていきたいという意図が見え見えですね。

 

原発はコストが安いか

 もう一つ、これまで政府や電力会社などは原発推進の根拠の一つとして、原子力発電は火力その他の発電方式に比べると価格が安いということをずっと言ってきました。

 

 例えば、経済産業省の「エネルギー白書」(2010年版)によると、液化天然ガス火力の発電コストは1キロワット時あたり7~8円、水力は8~13円、さらに風力は10~14円、太陽光は何と49円となっています。それに比べて、原子力は5~6円となっています。

 

 しかし、これもこれまでも何人かの専門家が、原発は決して安くはない、火力に比べても安いものではないとういうことをデータに基づいて言ってきているのです。

 

 最近では4月30日の東京新聞に、立命館大学の大島堅一教授が、これまでの原子力発電のコストを、火力・水力などと比較したデータを挙げておられます。これはインターネットでも検索することもできます。大島教授は電力会社自身の報告書を下に、経済産業省の試算には入れてなかった原発開発を促進するための税金や使用済み核燃料の再処理費用などを加えて、コストをより精密に計算をしました。

 

 それによりますと、1キロワット時で火力が9.90円、水力が7.26円、原子力が10.68円となり、原子力が一番高くなっています。また、これは先の「エネルギー白書」で国が使う試算5~6円の約2倍になっています。

 また、原子力発電をするためには、揚水発電所が必要です。つまり、原子力発電と揚水発電のセットになっておりますが、その場合には12.23円となっています。つまり、原子力は決して安いものではないのです。

 

原発は石油の節約になるか

 原発推進論のもう一つの根拠は「原発は石油の節約になる」という主張です。果たしてそれは真実なのでしょうか?

 

 それを確かめるためには、ある発電方式で発電をするために投入したすべての石油のエネルギー量と発電された電力を石油に換算したエネルギー量の比、すなわち、電力産出比を計算すればよいということになります。

 

 石油に換算された産出エネルギーが投入エネルギーよりも大きい場合、つまり、電力産出比が1より大きい場合にはエネルギー収支はプラスとなり、その発電方式には実施する意味があるということになります。そして、電力産出比が大きければ大きいほど、エネルギー収支から見て、その発電方式が効率的だということになります。つまり、経済的にも得ということであり、石油を節約できているということになります。

 

 逆に、電力産出比が1より小さければ、エネルギー収支はマイナスと言うことになり、その発電方式自体実施する意味がないと言うことになります。それどころか、実施すれば、経済的にも損だということであり、石油の無駄使いということになります。

 

 例えば、石炭火力発電の場合は、石油を1使って掘った石炭で作れる電力は石油に換算して100ぐらいだそうです。つまり、電力産出比は100で、石炭火力発電は意味があるということです。

 

 ところが、石油を使って石油を掘り、それを燃やして発電する、いわゆる、石油火力発電の場合は、電力産出比は100よりもずっと大きいのです。ということは、エネルギー収支から見ると、石油火力発電の方が石炭火力発電よりもずっと効率がよいということになります。そのために、石炭火力発電が衰退したというわけです。

 

 では、原子力発電の場合はどうなのでしょうか。1976年のアメリカ・エネルギー開発庁の試算によれば、電力産出比は3.8となっています。1991年に日本の電力中央研究所の発表によれば、計算の内訳は未公開ですが、4.0となっています。二つの値がほとんど同じであるのは、モデルの組み方や途中の過程などどちらも同じような前提に基づいて計算したためだと思われます。

 

 当然のことですが、エネルギー収支を計算するためには、計算の前提となる条件に漏れ、つまり、積み残しがあっては正確な計算結果を導くことはできません。

 

 まず、投入エネルギーを計算するためには、発電するために投入したすべてのエネルギーを合計しなければなりません。例えば、ウランの採掘・精製、発電所の建設費、発電作業自体のコスト、原発を動かすための揚水発電所の建設費など全部組み入れます。産出エネルギーからは、揚水発電所の夜間電力や送電によるロスや、原発の廃棄物の処理にかかる費用なども差し引く必要があります。

 

 物理学者の槌田敦氏は、米国エネルギー開発局の計算には、かなりの積み残しがあると指摘し、それらを補正して、次のような計算結果を出しています。

 

 「投入エネルギー」については、積み残しとして、原発の稼動に必要な揚水発電所の建設、発電所の建設や運転に使う電力、遠距離の送電設備の建設を加えます。また、「産出エネルギー」からは、揚水発電の夜間電力のロスや送電での損失を差し引きます。そうすると、エネルギー収支はほとんど1となるのだそうです。

 

 これだけでも原発をやる意味はないということになるのですが、さらに、長年にわたって放射性廃棄物の処理などにかなりのエネルギーを消費することを加味すると、どう楽観的にみても、エネルギー収支は1以下になってしまいます。数理経済学者の室田武氏も、ほぼ同様の計算結果を出しています。

 

 これらの結果から言えることは、原子力発電は発電所としてはまったく意味をなさないということです。それどころか、原子力発電は石油の節約にならないどころか、大きな無駄使いだということです。

 

 要するに真実は、原発はまず超危険である、原発は高くつく、原発は石油の節約にもならない、ということなのです。

 

原発なしでやっていけるのか

 それからもう一点ですね、よく言われるのが「原発なしでやっていけるのか」ということです。確かに、電力が不足すれば、家庭生活をはじめ、産業・経済活動その他、生存にともなうすべての活動に支障をきたすことになるわけですから、これは大変大きな問題だと言えるでしょう。したがって、今なお多くの人々が「原発がなければ電力不足になる」と言って、それを原発続行あるいは推進の大きな根拠とされているようです。

 

 それは果たして真実はどうなのでしょうか? 実際の数字で見てみましょう。京都大学原子炉実験所の小出裕章さんも指摘されていますが、日本全体では火力発電の稼働率は50%、水力発電の稼働率は19%です。つまり、原発を稼動しなくても、火力と水力の稼働率を上げれば、まだまだ発電能力に十分な余力があるのです。

 

 事実、火力と水力の発電能力の合計は17000万キロワット(KW)で、真夏の昼間の数時間を除いて、原子力なしでも火力と水力の合計で需要電力量をまかなえています。日本のこれまでの最大消費電力の記録は18200万キロワットなので、火力発電と水力発電の合計を上まわるのは、差し引きした約1200万キロワットになります。

 

 わずかですが、電力不足になるのは、冷房を使う夏の一時期に消費電力がピークとなる数時間だけです。したがって、このピーク時の電気の総使用量を抑える効果的な対策をとることにより、脱原発は充分可能なのです。

 

 ピーク時の電気の総使用量を抑えるためには、冷房の温度設定を少しだけ高めに設定し、冷房による消費電力を抑える。あるいは、工場などにおいてピーク時における電力消費を抑えるために、機械類の稼働時間をずらすなどの生産調整をする。さらには、フランスのようにピーク時の料金を高く設定することにより、電気の総使用量を抑えることなどが充分効果的な対策となります。つまり、原発なしでも充分やっていけるのです。

 

 もう少し具体的な事例を参考に考えてみましょう。

現在、浜岡原発が一時的に差し止め、つまり中止になっておりますけども、中部電力のHPの平成23年度「電力供給計画」によりますと、22年度の供給予備力は295万キロワットとなります。ところが、猛暑だった去年の真夏に稼働していたのは浜岡3号機と4号機だけで、その供給力は223.7万kWでした。

 

 ということは、浜岡3・4号機がもし止まっていても供給予備力は295万kW-223.7万kW=71.3万 kW余っていたということです。

 さらに、今年の供給予備力は439万キロワット。 浜岡原発を全部止めて361.7万kW分減らしても、77.3万kW以上余ると中部電力自身が予想しています。原発なしでも火力、水力、あるいはその他のエネルギーによって十分間に合っているんですね。

 

 また、2011年6月12日の朝日新聞には「夏の電力需要、供給力確保か 東電、広野発電所再開へ」という見出しで、次のような記事が出ています。

 

 「東日本大震災の津波で被害を受けて停止した東京電力広野火力発電所(福島県広野町)の全5基(出力計380万キロワット)が、7月中旬にも運転再開できる見通しになった。これにより、東電は5500万キロワットと予想する今夏の最大需要を上回る供給力を確保できる可能性が高まってきた。(中略)

広野火力が立ち上がれば、夜間に余った電力で水をくみ上げて発電する揚水式発電による上積みも可能になる。」

 

 つまり、東電管区内においても、今年の夏も原発はなくてもやっていけそうだという記事です。ですから、例えば、みんなが冷房の温度設定を一度くらい上げれば、原発一基分ぐらいの節電は簡単にできるそうですから、企業を含めて私たちが仕事や生活の中で節電を心がければ、とくに大きなガマンを強いられるということもなく、電力不足を回避することは充分可能なのです。

 

 要するに、これからはこれまでのように電力を湯水のように使うことは改めて、できるだけ節電を心がける必要があります。そうすれば、原発はなくとも、火力や水力、あるいは自然エネルギーだけで、現在の生活のレベルや企業の作業能率を落とすことなく、また、生産コストを上げることなくやっていけるということです。

 

 政府はここ数十年にわたって原発推進を国策としてきました。そのために、火力と並んで原子力を発電の2本の大きな柱としてきました。つまり、もともと、発電の主力を原発以外の火力などでやっていれば、それだけで充分必要な電力はまかなえていたにもかかわらず、国の政策として、原発が現実の日々の発電のシステムにしっかりと組み込まれ、私たちの生活や経済活動などが原発に依存せざるをえないような仕組みにしてきたのです。

 

 したがって、今急に原発をすべて廃止するということになれば、現実問題としては、調整が追いつかずに、一部の地域において一時的に電力不足になる可能性はあるかもしれません。そういう意味では、電力が不足するかもしれないこの期間をどう凌いでいくかということは大きな問題であることは確かであり、慎重に対処しなければならないことは当然のことです。

 

 

テロ攻撃などによる大事故の可能性

 もう一つ、今回の事故は地震と津波によって起こったわけですけども、もう一つ考えておかなくていけないことがあります。

これはあまり言われていないのですけども、実は、原発の事故は飛行機の墜落、あるいは、ミサイル攻撃やテロ攻撃を受ければ、大事故が起こる可能性が非常に強いということです。

 

  原発の原理的あるいは構造的なことから言って、飛行機の墜落や武力攻撃を受けた場合には原発の大事故を防ぎきれないということです。

つまり、原発は飛行機の墜落や武力攻撃されることを想定して設計・建築されているのではなく、あくまで、戦争とかテロの無い、いわゆる「平和といわれる時代」において稼動することを前提として、構造が設計されて建設されているということなのです。

 

 ということは、日本の場合には原発が54基あるということですが、ほとんど全国的に、その沿岸に原発が配置されているわけですね。もし日本を攻撃する意図を持った国があるとすれば、これは日本全国に仕掛けた核爆弾と全く同じなわけですね。

 

 もし、飛行機、ミサイル、あるいはその他のテロによって、原発を攻撃をすれば、日本に何発もの原爆を落とされたことになります。そうなれば、日本は事実上壊滅して、日本にはもはや人が住めるところがなくなってしまいます。これは非常に大変な状況ですね。

 

 その意味では、日本が原発を保持しているかぎり、どれだけ軍事力を増強しても、原発に対する他の国々からの攻撃を防ぐことは不可能です。ということは、これはブラック・ユーモアにしかなりませんが、日本が今後も原発を保持していくのなら、軍事力を全廃して、絶対に他の国々から攻撃を受けない絶対平和友好国家を目指すしか、日本が生き残る道はありません。

 

 ちなみに、欧米諸国は原発テロを想定した研究や訓練を実施しています。1981年には実際にイスラエルによってイラクの原子炉が爆撃されました。

 

 (付記:2011年7月31日の朝日新聞によると、イラクの原子炉爆撃事件を受けて、外務省は極秘に国内の原発が攻撃を受けた場合の被害予測の研究に着手しました。そして、1984年に、原発攻撃により多大な被害が引き起こされるという報告書が提出されました。しかしながら、反原発運動の拡大を恐れて公表しなかったとのことです。)

 

全部騙されてきた

 さてここで、ここまでいろいろ検討してきたことをまとめてみたいと思います。一言で言えば、結局は、私たちは全部騙されていたんだなと、ということではないでしょうか。

 

 これまで、電力会社や国によって、絶対安全だと言われていた原発が、今回の福島原発の大事故で、原発は超危険だということが事実によって証明されてしまっただけでなく、これまでメリットとされ、原発推進の根拠とされていたことのすべてが、本当はデメリットでしかなかった、ということです。

 

 これは一体どういうことでしょうか。簡単に言えば、つまり、最初から原発をやる意味がまったくなかった。原発によって一般の私たちは大損するばかりであり、超危険だということです。それが今回の福島の原発事故を通じて多くの方々に明らかになってきたということでしょう。

 

 ここでもうひとつ大切なことは、先ほども言いましたが、これらの事実は何十年も前から心ある人たちが繰り返し警告してきた事実であるということです。

 

 同時に、それらの警告の声を封じ込めてきた電力会社や政府、官僚、政治家、あるいは財界、あるいは研究費ほしさの御用学者や御用メデイアなどの勢力があったということです。そして、私たちの多くは「お上」すなわち、国や電力会社などが言うことを無条件に信じ込み、また、どこかで疑いながらも、それを見て見ぬ振りをしたり、あるいは、それらのことにまったく無関心で生きてきた。それらが相まって、今回の大事故に繋がったと言えるのではないでしょうか。

 

無知・無関心・他人任せ・あきらめ根本原因

 要するに、私が言いたいことは、一方的に電力会社とか国を批判するというだけで、この問題を済ませようとするのではなく、ここで私たちは私たち自身の生きる姿勢をきちんと反省するべきではないかということです。

 

 例えば、情けない話ですけれも、今回の福島の原発事故があるまで、日本に54基もの原発があるということを知らなかったという人も結構多いのです。また、今回の事故ではじめて原発は危険だということが分かった、という声も随分聞こえてきます。

 

 つまり、原発に関しては国や電力会社などが悪いということは明らかな事実ですが、同時に、私たちも足りないところが多々あったと思うのです。結局、結果としては、私たちがこのような電力会社や国などを支えてきたのだということです。

 

 この事実をきちんと反省しなければ、今後、本当の意味で平和で幸福な日本を創っていくことはできません。きちんとした自己反省なしには、原発問題にしても、今後状況しだいでどのように判断が狂ってくるかもしれませんし、原発以外の深刻な社会問題、例えば、憲法改正問題などについても間違った道を選択する可能性が出てくると思うのです。そういう意味でも、今私たちは大きな岐路に立っていると言えるのではないでしょうか。

 

 逆に言えば、私たちは今こそ全力をあげて、この困難な状況を一日でも早く復旧しなければならないと同時に、原発だけでなく、2度とこのような惨事が起きないように、この困難な状況を引き起こした根本原因を探り、国や社会のあり方はもちろん、私たちの個人としての生き方に徹底的な根本療法を施し、本当に平和でみんなが幸福な日本を創っていく契機としなければならないと思います。

 

お上信仰ではダメ

 もう少しこの辺のところについて考えてみましょう。日本人の一般的傾向として「お上信仰」というものがあるんですね。お上の言うこと、例えば、政府のお偉方、大学の教授、大会社の社長が何かを言うと、何となくそれを鵜呑みにする傾向があるようです。

 

 もちろん、政治家については、例えば、今の首相はどうのこうのと文句をつけるような会話も聞こえます。でも全体的には、日本人の体質として、本当は上も下もないので「上の」と言い方はおかしいのですが、「上の方」から言われたことは、そのまま鵜呑みにしてしまう傾向があるように思います。それが、この原発問題の根本的な原因のひとつとして、私たちの側にあったのではないでしょうか。

 

 もう一面から言えば、そういうことを詳しく、というか、正しく知ろうとしない。そういうことはお偉方の考えることで、私には関係ないという無関心。そして、自分にできることでもないとする他人任せ。その無関心と他人任せから来る無知。何だか偉そうに言っていますけども、私自身にもその傾向がないとは言えません。

 

 もう一つはあきらめですね。心のどこかで「そういうことは結局どうにもならないんだ」と思っている人が非常に多いのではないでしょうか。「私たち一人ひとりが声をあげても、結局、どうにもならないのだ」というあきらめです。

 

 この無知と無関心と他人任せとあきらめ。これが福島の原発事故を起こした、一番の原因である。電力会社や国の姿勢を責める前に、私たち自身が一人ひとりが反省しなくてはいけない、と言えば、言い過ぎになるでしょうか。

 

 私は私自身、今このように言ってみて、決して言い過ぎなどではなく、あらためて、この「無知と無関心と他人任せとあきらめ」こそ、今回の福島原発の大事故の根本原因だという感を深くしています。

 

 つまり、一般的に私たち一人ひとりに「この社会、この国、この世界が自分たちのものだ」という当たり前の認識が欠けているということだと思います。そのために「自分たちが、自分たちの手で、この社会を、この国を、この世界を創っていくのだ」という自覚が私たち自身に欠けていたということです。国に関して言えば「将来どういう日本を創っていくのかという明確なビジョン、誰にでも納得できる本当の理想が日本という国に掲げられていない」ということではないでしょうか。

 

まだまだ原発賛成者は多い

 これまでお話してきたことから、みなさんもお分かりになっていると思いますけども、例えば「原発は決して安くない」ことなどについては、少し調べるだけで誰でもわかることですね。

 

 

 原発や放射能は何となく怖い。現実に事故も起こってしまった。だから自分は原発には反対だと思っているとします。ところが、実際に話してみると、自分の周りには原発賛成者、原発推進者がたくさんいるんです。

 

 原発はどういう状況になっても絶対反対、つまり、これから脱原発社会を創っていくのだという人はまだまだ少数だというのが実感です。新聞などのアンケートでは、原発反対が70%ぐらいになっているみたいですけども、実際、日常的にいろんな人に聞いてみると、何が何でも脱原発という方々は全体の4分の1ぐらいです。

 

 残りの4分の3は、今は原発がないほうがよいと思っているのだが、もし原発なしで電力不足になるのなら、あるいは、自分の仕事に不利な影響が出るのなら、あるいは、経済成長を維持できないのなら、原発続行もやむをえないのではないかなどと思っているようです。要するに、今は原発反対という気持ちが強いけれども、状況次第では、原発続行、あるいは推進に変わる人が結構多いように思います。

 

 ということは、仮に4分の1の人たちがどんな状況においても絶対反対だと言っても、状況しだいで、残りの4分の3の人たちが賛成すれば、やはり原発は続いていくのです。

 

 おそらく電力会社、あるいは政府関係、あるいは官僚とか原発続行したり推進することで得する人たちがいて、それらの人たちが結束して、原発を推進してきたのだと思うのですが、そういう人たちは人数的には国民全体の1%ぐらい、あるいは、それ以下なのだと思います。

 

 残りの99%、これが一般の民衆です。つまり一般の民衆である私たちが、原発は本当に意味がないし、何のメリットもない。もちろん、石油の節約にもならないし、二酸化炭素排出の削減にもならない。そのうえ、とてつもなく危険だ、ということをはっきり理解しさえすれば、原発を永久に廃止することができることになります。

 

原発にメリットは一つもない

 ここは大切なところなので、もう一度繰り返します。多くの人々が原発にはメリットとデメリットがあると思っています。そして、メリットとデメリットを天秤に掛けて、どちらが重いかと比べてみて、原発賛成、反対を決めようとしています。

 

 デメリットのなかでもっとも大きなものは原発は超危険だということです。仮に、原発にいくつかのメリットがあるとしても、この超危険だというデメリットだけでも、メリットのすべてをあわせたものよりはるかに重いので、私自身は直ちに原発は廃止にすべきだと思います。

 

 ところが、そこに価値観の違いという問題があるのです。例えば、ある人は次のように言うのです。「何よりも大切なことは経済成長である。経済成長には電力が必要だ。原発が危険であったとしても、必要な電力を供給するために原発は必要だ。」

 

 要するに、経済成長のためには、たとえ原発に危険な面があったとしても、原発は必要だという理論です。「経済成長」という言葉を「現在の生活維持」あるいは「現在の仕事の継続」あるいは「現在の収入の継続的確保」と言い換えてもよいでしょう。

 

 こうなれば、一人ひとりの価値観によって原発賛成、反対が違うということになり、また、その時その時の社会状況により人々の考えが変わってしまいます。これでは何時までたってもはっきりした結論は出るはずがありません。また、そこで無理やりに結論を出しても、その結論が間違っていれば、将来に禍根を残すことになってしまいます。 

 

 ところが、私がこれまで述べてきたことは、「実は、原発にはメリットはまったくない」ということです。これまで、メリットと言われていたこともすべてその実態を調べてみると、原発ならではのメリットとは言えない、むしろデメリットだということです。

 

 このように、原発にまったくメリットはないということがはっきりすれば、後に残るのは原発は超危険だというデメリットだけということになります。ということは、原発は何が何でも早急に、そして永久に廃止にするべきだということです。

 

自分が分かっただけではダメ

 ここまで述べてきたことは皆さんにもすでに納得していただけたと思います。 ただ、それだけでは、何も変わっていかないと思うのです。

 

 原発に関する本も読んでみた。サイトも覗いてみた。講演会にも行って話を聞いた。なるほど、原発は危険だ。原発にはなんのメリットもない。原発をやる意味はないことがよくわかった。だから、私は原発には反対だ。これはひとつの進歩だと言ってもよいのかもしれませんが、これだけでは、原発を早急にかつ永久に全廃することはできないと思うのです。

 

 要するに、「自分は原発には反対だ」と自分だけで終わっていては何も変わらないのです。これは過去の歴史が数多くの事実をもって証明しています。簡単に言えば、「平和は祈るだけでは実現しない」とうことです。

 

 私たちは真の平和の実現に向かって、確かな具体的な手段をもって、果敢に他の人たちに自分の思いを伝え、賛同者を増やしていかなければならないのだと思います。つまり、私たち一人ひとりが「真に行動する人」にならなければ、この社会は何も変わらないということが、私たちが今回の原発事故から学ぶべきもっとも重要な教訓ではないでしょうか。

 

他の人に伝える力をつける

 そのためには、まず、私たち一人ひとりが「なぜ、原発は早急に全廃しなければならないか」ということを理論的にも、事実としてもきちんと理解しなければなりません。そして、それを他の人たちにきちんと確実な理論と事実をもって説明していける実力を付ける必要があります。そして、機会を見つけては積極果敢に他の人にその真実を伝えていくことだと思います。

 

 そのために、心がけて関連する本を読んだり、サイトを覗いたり、講演会や学習会に参加することは自分の実力をつけるためにも大変有効です。また、知人によい本やサイトを紹介したり、講演会や学習会に誘うこともとても有効なやり方だと思います。

 

 ここで、例えば、「経済成長を続けるために原発が必要だ」あるいは「自然エネルギー発電は不安定で発電効率もよくないので、安定して発電効率のよい原発の代替にはならない」あるいは「原発はたった1グラムのウランで、石油2トンのエネルギーを生み出すことができる。原発は圧倒的に効率がよい」などという意見に対して、あなたはどう答えますか。

 

 最初の「経済成長を続けるために原発が必要だ」という意見に関しては、すでに述べたように、発表されているデータの数字をあげて「原発がなくても、火力や水力で電力は足りている」ことを示せばよいでしょう。

 

 二番目の「自然エネルギー発電は不安定で発電効率もよくないので、安定して発電効率のよい原発の代替にはならない」という意見については、確かに、現在の段階では、自然エネルギーによる発電が不安定で、発電効率が大きくないということは事実です。

 

 自然エネルギー発電を普及・拡大するには、今後大幅な技術革新により発電効率を上げることと同時に、スマート・グリッドのようにコンピューター技術による安定・制御技術の向上が望まれるところです。そうすれば、将来的に有望な発電方式として自然エネルギー発電はますます重要なものとなっていくでしょう。

 

 また、原発の発電効率は火力や水力に比べても決して高いものではないので、その面からも火力や水力、さらに自然エネルギーで充分必要な電力はまかなえるのです。

 

 三番目の「原発はたった1グラムのウランで、石油2トンのエネルギーを生み出すことができる。原発は圧倒的に効率がよい」という意見については、ちょっと考えると「それはすごいな」と思ってしまうかもしれません。しかし、これは数字のトリックですね。

 

 確かに、ウラン1グラムで石油の2トン分のエネルギーが出るというのはすごいですね。ところが、最初からウランの精製されたその1グラムがあるわけじゃないのです。地中を深く掘って、そこからウランを含んだ土であるとか岩石を取り出してくるわけですね。その中にごく一部分ウランが含まれており、またそのウランのまたごく一部分0.07パーセントがウラン235で、それが原発に使われているのです。

 ということは、最初の土や岩石などに含まれていた段階からずーっと濃縮を繰り返してきた最後の1グラムが石油2トンのエネルギーに相当すると言っているだけなのです。ですから、最初の地中で土や岩石の状態で石油と比べれば、決してそれだけのパワーをもっているわけではないのです。

 

 濃縮・精製されたウランは持っているに違いないのですが、そこまで濃縮・精製するまでには大量の石油あるいは石油で作った電気が必要だというわけです

 

 以上のように、一つひとつ事実を検証していくと、いろんな人が原発は必要だと言われるその根拠を、一つ一つ確実に論破して説得することができます。

 

確実に他の人に伝える

 このように、原発の真実について、一人ひとりが他の人たちに確実に伝えていく。確実に5人でも10人でも100人にでも伝えていく。伝えられた人がまた5人でも10人でも100人にでも伝えていく。その連鎖が最終目的までずっと続いていくということでなければ、本当に原発を廃止することはもちろん、本当に平和でみんなが幸福な社会を実現していくことは不可能だろうと思います。

 

 私たち一人ひとりが、これまでそうできなかったことが、福島原発の大事故を引き起こしてしまうような日本にしてしまった一番の原因だと思います。その意味で、私たち一人ひとりにとって、「本当の幸福とは何か」ということを真剣に考え、「本気で行動する人となる」ということが、今もっとも必要なことではないでしょうか。

 

(前編の終り。後編に続く。)

 

2011年8月1日月曜日