存在の真実について その2

存在の真実について その2

 

本能とは無数の成功体験の集積

 野生の動物は、すべて本能に従って動き、循環し、関連しあって自然と調和して生きています。それは本能によって自然の法則にしたがって生きているからです。本能は何十万年、何百万年、何千万年、さらに、何億万年の進化の歴史を通じて、無限回とも言える試行錯誤により、個と種の生き残りと繁栄のためのよりよい成功体験を積み重ねて、遺伝的に獲得・蓄積してきた最高の能力です。

 

 ですから、野性の動物は本能にしたがって行動し生活すれば、それがすべて自然の法則に沿った調和したものになるので、怪我や細菌による感染、あるいは食糧不足による身体の衰弱などを除いて、体の働きが異常になることがないのです。つまり、野生の動物は、基本的には、事故によるケガを除けば、病気にはなりません。

 

人間はアタマで生きる

 それに対して人間にはアタマ(発達した大脳)が備わっています。他の動物と異なって、人間の特性はアタマで考えることができるということです。しかしながら、アタマの判断能力は生きることの基本的な分野では本能に比べると非常に貧弱であると言えましょう。アタマによる判断能力にはせいぜい長くても数百万年の体験の蓄積しかありません。

 

 一方、前述のように、本能は地球上に生物が発生以来約10億年の成功体験が集積そして凝縮されたものです。例えば、動物の生存に不可欠な食物について考えてみましょう。野生の動物は本能にしたがって、好きなものを好きなだけ食べます。自分の体に合うものはよい味、好きなものと感じます。反対に体に合わないものはまずい味、嫌な臭いと感じます。それが本能の働きです。そして、本能の働きにより、必要量を食べると自然に満足して、それ以上食べるのをやめるのです。

 

野生動物に肥満はない

 したがって、野生の動物は体に合わないものを食べるということはなく、また、食べ過ぎということもありません。当然、野生の動物には肥満はありません。カバが太っていると思うのは、それを鹿などの別の種と比べるからそう思うのです。カバはその体つきが生存に適しているので、種として本来的に肥満しているのではありません。カバはその体つきがそのままで標準であり、同じ種の中に標準を超えて、異常に肥満したカバはいません。

 

人間に適した食べ物

 それに対して、人間は多くの場合何らかの知識や経験などに基づいて、食べ物の種類や量や食べる回数も、アタマで考えて決めることが多いのです。その結果、多くの場合食べ過ぎになっています。

 

 人間も本能にしたがえば、本来、肉や乳製品などはそれほど多くは食べないはずなのです。例えば、人間の歯は堅い生肉を噛み切るにはあまり適していません。人間が火を使用し、肉を焼いたり煮たりして軟らかくする技術を開発するまでの人間、あるいは、その先祖である類人猿の一種であった数百万年の間、他の動物の肉を食べることはあったとしても、主食は木の実や果物、木の葉のようなものだったと推測されます。

 

ネコと人間の違い

 また、本来は純然たる肉食動物であるネコなどを観察していると、チョコチョコ動く小動物が近くに来ると、本能的に彼らは興奮してその小動物の動きを眼で追いかけ、相手の隙をねらって飛び掛ろうとしています。

 

 それに対して、私たち人間は牧場の近くを散歩している時に、子ヤギなどが近づいてきても、一般には「可愛い」と思うことはあっても、「これは美味しそうだ」などと思うことはありません。ましてや、よほどの飢餓状態に直面しているのならともかく、通常の場合には、跳びかかって捕まえてやろうという衝動が本能的に湧き上がってくるようなことはないでしょう。

 

 これらは一例に過ぎません。もちろん、人間は肉を焼いたり、煮たりして軟らかくし、生肉のまずい味を隠すためによい香りや味を持つ野菜や果物のジュースや塩などの調味料を加え、肉を「美味しく」食べることはできます。それが、体に本当に適しているかどうかは別として、人間の食材の範囲を広め、食生活や食文化を豊かにし人間の生存を容易にし、その生息地域を飛躍的に拡大させたことは事実です。しかしながら、火に掛けたり、他の匂いや味のよい野菜や果物などと混ぜて調理しなければ、美味しく食べられないということは、肉は本来的には人間にはそれほど適した食べ物であるとは言えないということではないでしょうか。

 

ミルクはよい食べ物か

 乳製品はどうでしょう。動物のミルクはその種によって成分が異なります。人間の赤ちゃんには人間のお母さんのミルクが適しています。ウシの赤ちゃんにはウシのお母さんのミルクが適しているのです。

 その意味では、人間の赤ちゃんにウシのミルクを与えるのは問題があるといえるのではないでしょうか。ましてや、哺乳類は生まれてからある一定の年月が経過すると自然に離乳します。母親のミルクを必要としなくなるのです。

 

 哺乳類は大きくなれば自分で食べ物を捕って食べるようになります。ところが、多くの人間は大きくなってからもミルクを飲みます。それも自分のお母さんのミルクでなく、ウシのお母さんのミルクをです。何か変ではありませんか。

 

 ウシのミルクに人間にとっても栄養になるものが含まれているのは事実でしょうが、ウシのミルクには赤ちゃんウシにとって必要な成分が凝縮されています。ウシのミルクは人間の大人にとっても本当によい食べ物なのでしょうか。人間の大人はウシの赤ちゃん用のミルクを奪って飲んでいるわけですが、大人のウシでさえ牛乳なんか飲みません。

 

人間の体に適した食べ物

 では、人間の体にとってもっとも適した食べ物とはどんなものでしょうか。それは基本的には、焼いたり煮たりなどすることなく、生のままで、他のいかなるものとも混ぜないにもかかわらず、そのままで香りがよく、美味しいもの、ということになります。

 

 これは現代の多くの人びとの常識とはかなりかけ離れた考え方かもしれません。しかし、人間の体の自然とは何かという視点に立てば、決してとっぴな考えではありません。私たち人間の先祖は数百万年の長い年月、自然が与えてくれた最高の能力である本能に基づき、生のままで匂いがよく、味のよい食べ物を選んで食べてながら生き抜いてきたのです。

 したがって、人間の体の構造はそのような食べ物に適応するようにできています。その後人間はいろいろの調理法を開発し食材などの範囲を広げてはきましたが、その歴史はせいぜい数万年というところでしょう。人間の体が新しい食物に充分適応しているとは言えません。

 

なぜ食べ過ぎるか

 多くの場合、人間はアタマの判断や知識に基づいて食べ物を選び食べます。本能にしたがえば、体に合うものを食べるので、ちょうどいいところ(比較的に少量)で満足して、食べるのを止めるはずなのです。

 

 ところが、アタマの判断や知識で食べているために、体に本当に合うもの(好きなもの)を食べないことが多いので、いくら食べても、本当には満足できません。それで、満足を得ようとして、もっともっと食べないではいられないのです。そのために、ついつい食べすぎになってしまうのです。

 

体の異常は不自然な生活から

 また、現代の生活ではあまり歩いたりすることがなくなりました。歩くことによって人間の体は自然にバランスなどが調整されるのですが、その自然の調整がうまく出来ません。

 また、運動不足になるので、仕事の後運動ジムなどに通っている人も多いようです。野生の動物はジムなどに通わなくても運動不足になることはありません。

 

 このような例は人間の生活のあらゆる場面に見られるのではないでしょうか。つまり、人間はアタマで判断するため、自然の法則から外れ、生活が不自然になり、そのために体が異常になるのです。ということは、原則的には、体の異常は生活を自然の生活に即して正し、自然の生命力(本能)に任せれば治るということです。

 

人間の社会は一体の社会

 私たちの世の中、つまり、人間の社会も本来すべてが繋がった循環する一体の世界です。この社会は大人、子供、老人、赤ん坊、男、女、夫、妻、息子、娘、祖父、祖母、おじ、おば、甥、姪などすべての人が繋がり合い、循環した関係にあります。

 それが家族、友人、知人などいろいろな関係と繋がりを持ち、また、それらの人々の有機的な集まりや結合により、店、工場、事務所、会社、役所、裁判所、学校などいろいろな組織や各種の機関が構成されます。

 そして、さらにそれらが集まって国家となり、さらに世界はこれらのすべての要素によって構成されています。

 国際社会の基本的単位は国家ということになります。すべての人やその他の構成要素は人体におけるすべての細胞や組織や器官と同様に、この一体の社会を構成するかけがえのない存在であると言えるでしょう。

 

私たちの社会は調和していない

 しかしながら、一体であるこの社会はすべてが正常で調和していると言えるでしょうか? 残念ながら、そうではありません。この社会における一つ一つの存在はかけがえのないものではあり、互いに密接に繋がっているとしても、それらの働きが正常に働き、調和した、平和で幸福な世界になってはいません。それはなぜでしょうか? 真理に沿わない考えや判断によって、社会に異常が生じているのです。

 

 それは体の場合と同じように、アタマで間違った、つまり、真理(自然の法則)に沿わない考え方や観念、判断に従って、個人個人や各種の組織や機関が活動することにより、この社会に異常が生み出されるからです。

 それが、個人の心身の悩みや苦しみの原因、また、人と人の間の憎しみや争いの原因となり、さらに、紛争や戦争、貧困、飢餓、環境破壊などの原因ともなっているのです。

 

 要するに、私たちの社会も一体です。しかし調和していないのです。それは、存在の真実、すなわち、「すべての存在はバラバラではなく、不可分一体である」という真理に沿わない考えや判断によって、社会に異常が生じているということです。

 

体の仕組みと社会の仕組み

 体は一体ですから、体のどこかに病気や怪我があればそれは体全体の不調和となります。また、その影響と反応はすべての細胞の末端まで及びます。また反対に、一個の細胞の病気や傷は一体である全心身の病気に繋がります。

 

 人間の社会は一体の世界という意味では、人の体とよく似ています。社会におけるいろいろな問題は人の体の病気と同じようなものです。つまり、体の一部の傷みが全身の傷みとなり、心の病となるのと同じように、世界のどこかに一人でも貧困や飢餓、あるいは戦争など、困ったりで苦しんでいる人があれば、自分自身の苦しみ、不幸と捉えるのが人間本来の正常な感覚であり、また正しい観方なのです。

 そして、それを一体の自分自身の苦しみや不幸であるとして、一刻も早く取り除き、正常に回復するように勤めるのが人間本来の姿だと思います。

 

 このように、もし、一人一人がこの存在の真実を自覚すれば、そこにはもはや争いなど起こりようもなく、「自分さえよかったら」あるいは、「自分達さえよかったら」というエゴイズムは生じるはずもないのです。

 

一体観とバラバラ観

 ここでもう一度、個と全体という観点から、一体観とバラバラ観について考えてみましょう。というのは、私たち人間一人一人には確かに「自分」という意識、すなわち「個」という意識があるからです。そして一人一人、あるいは、一つ一つの存在はバラバラであるというように見えているのも事実なのです。これはどのように考えたらいいでしょうか? 

 

 これは私たちの五感を通して見たり、感じるイメージとこの世界の本当の姿の違いであると考えられます。この違いを一つの例えで説明しましょう。

 太陽光線は無色であり、ひとつのものです。ところが、無色の太陽光線をプリズムに通すと虹のように七色に分かれます。実際は、七色ではなく、もっと多くの色に分かれるのだと思います。

 ちょうどこれと同じように、すべての存在は、元々は一つのものが、私たちの五感を通すと無数の「個」として見えていると考えられるのです。

 

人類はみな兄弟

 「個と全体」の関係をもう一つ例えを使って説明しましょう。

 一九八七年に発表されたハワイのカン博士らの研究によれば、アジア、ヨーロッパ。オーストラリア、ニューギニアなど世界各地からの新生児の遺伝子を比較研究したところ、現在地球上に生存するすべての人間は20万年前にアフリカに生きていた一人の黒人女性を共通の先祖として持つというのです。

 要するに、すべての人間はその女性の子孫であり、人類はみな兄弟というわけです。

 

 人類の共通の先祖が本当に特定されのかどうかは別として、すべての人類が、ある特定の共通の先祖を持ち、すべての人間がその特定の先祖の子孫であるということには異論はないと思います。

 

 それは「ある共通の先祖から分かれてきた」と表現することもできるでしょうが、「分かれた」子孫の男女がまた結びついて、共通の子孫が生まれるというようなことが無限大に近い回数繰り返し起こっており、それは、いわば、立体的網の目のような関係になっています。

 

 ということは、「分かれてバラバラになったかに見えて、それは新たな結びつきを有機的に形成することに繋がっていくことを考えれば、「バラバラで関係がなくなった」とは言えず、一見バラバラに見えるイメージも不可分一体の姿の一つであると言えます。

 

すべての存在は一体である

 「個と全体」の関係は、私たち人間の体について考えるとより明瞭になります。

 一人一人の人間の生命の元は一個の受精卵です。その受精卵がそのままではあまり精密な生命活動をすることができません。そこで、1個の受精卵が細胞分裂の結果2個の細胞になり、それがまた分裂して4個となるというように、無限に近い回数細胞分裂を繰り返し、結局60兆以上の細胞が形成され、それらの細胞から、各種の機能を持つ組織、そして、器官が生み出され、それらが全体として一人の人間という生命体を構成しているのです。

 

 では、それぞれの細胞や、それぞれの組織、それぞれの器官はバラバラでしょうか? 無関係でしょうか? 「ただ繋がりがある」というだけでしょうか? 「密接な関係がある」という表現でお互いの関係を説明しきれるでしょうか?

 

個と全体

 いずれも間違っています。それぞれの関係は、互いになくてはならない関係であり、互いに助け合い、補い合う関係であり、それが互いに循環し、それぞれがそれぞれの特性や役割を果たすことによって全体である一つの生命体(いのち)が生きることができるのです。

 

 つまり、それぞれの個は他のすべての個によって生かされ、個は個として全体である一つの大きな生命を生き、全体である一つの大きな生命は個として生きるのです。

 

存在の真実の自覚が大切

 この「個と全体」の関係は、人間の体だけでなく、自然界においては当たり前の姿です。そして、人間の社会についても本来のあるべき姿なのです。

 確かに、私たちには「自分」という意識があり、「個」という意識もあります。しかしながら、だからといって、私たち一人一人の存在がバラバラであるということでは決してありません。

 私たち一人一人の人間は、本来は、お互いになくてはならない存在であり、互いに助け合い、補い合い、協力し合い自然と調和して生きていくのが、人類社会の真実の姿なのです。

 

 一人一人に「自分」という意識があり、「個」という意識があるのは、それによって、他をよりよく生かし、全体の生命をより発展させるという、この大宇宙にあまねく働いている「いのち」自体の内的要請により、進化の結果、そのような能力を人類は獲得してきたのだと思われます。

 それは、ちょうど単細胞生物から多細胞生物、さらには、複雑な組織や器官を持った各種の植物や動物に進化してきたのが、「いのち」自体の内的要請であると考えられることと同じです。

 

 いずれにしても、人間社会のすべての問題はバラバラ観に基づくエゴイズムにあります。ここまで人類社会が行き詰った現代において、今こそ、「すべての存在は一体である」という存在の真実を自覚しなければならないと思います。

 

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2009年3月2日月曜日