自分は存在するか

自分は存在するか?

 

1 まず、「自分は存在する」と仮定してみよう。

 眼はいろいろなものを見ることができる。しかしながら、眼は眼自身を見ることはできない。それと同じように、自分は自分以外のものは見ることができるが、自分は自分自身を見ることはできない。

 

 つまり、「自分は自分以外のものは対象として認識できるが、自分は自分自身を対象として、これが自分自身だとは認識できない」のである。すなわち、「自分は何々である」と考えたとしたら、すでに、その何々は自分以外のもの、すなわち、自分ではない、ということである。これは自己矛盾そのものである。

たとえば、もし、「この体と心が自分である」と(自分が)考えるならば、すでに、この体と心を自分以外の対象物としている。すなわち、この体と心は自分ではない、ということである。したがって、「この体と心が自分である」ということ自体が間違いなのである。

 

 同じように、もし「自分は宇宙である」と考えるならば、宇宙は自分以外の存在、自分と宇宙は異なったもの、つまり、「宇宙は自分でない」と言っていることになる。体や心、宇宙だけでなく、この世界のすべてのものについて、同じことが言える。

 

 要するに、仮に、「自分は存在する」としても、自分は自分自身を認識できない、したがって、これを自分だ、と特定することはできない。したがって、「自分は存在するかどうか」は知りようがない、ということになる。

 

2 フランスの有名な哲学者デカルトは次のように言っている。「我思う、故に我在り」と。

 彼は正しいと言えるだろうか? 端的に言えば、まったくの間違いである。その根拠を書いてみよう。このテーマは「我は存在するか?」ということである。それにもかかわらず、彼はまず「我思う」と言っている。つまり、我の存在を最初から前提にしているのだ。そして、結論として「故に、我在り」と言っている。ということは、「我が在る、故に、我が在る」と、理屈にもならないことを言っているにすぎない。最初から論理に矛盾があるのだ。

 

 しかし、彼の本当に言いたいことを推察してみると、おそらく、それは、「考えが存在する。だとすれば、考えている主体があるはずだ。それが自分である」ということであろう。もし、この推察が正しければ、彼の考えは一見筋が通っているように思えるかもしれない。デカルトだけでなく、多くの人は哲学的には思考しなくとも、ほとんど無意識のうちに同じように考えているのではないだろうか。しかし、ここにいくつかの疑問が出てくる。

 

 まず第一に、「考え」は事実として存在する。ここまではその通りである。しかし、彼は次に、当然のこととして、「考えている主体がある」としている。しかしながら、「考えている主体」が本当に事実として存在するのか?ということはまったく問われていないのである。

 

 第二に、「考えている主体」というものがあるとして、それはどこにあるのであろうか? 多くの人は「それは脳である」というかもしれない。あるいは、脳は体の一部であるから、「それは体である」というかもしれない。確かに、科学的な研究によれば、考えている時には脳の特定の部分が活発に働いていると言われている。であれば、これは科学的事実と言ってよい。

 

 しかし、それ故に、「考えている主体は脳である」と言えるだろうか。考えることに脳が関与していることは事実としても、体や脳以外のどこかに存在する「何か」から何かの刺激を脳が受け取って働いているのかもしれない。だとすれば、脳がコンピューターのようなものとして働いている可能性もある。だとすれば、脳を動かせている「何か」こそが考えている主体と言えないだろうか。

 

 第三に、仮に、「考えている主体」が存在するとしても、あるいは、存在しないとしても、どこから「自分」というものを持ち出してきたのであろうか? そのどこに「自分」があるのか? 

 

3 仮に、「考える主体」が存在するとし、「考える主体が自分」であるとしよう。「考える主体」が、仮に、脳、あるいは体、あるいはその他の何であったとして、「これ」が自分だと考えたとする。しかし、前に述べたように、「これは自分ではない」。

 

 つまり、「これが自分である」と考えたものが「自分」であるはずだ。そうであるなら、「これは自分ではない」と考えるものが「自分」であると考えざるをえない。そうであるなら、さらに、「これは自分ではない、と考えるものが自分である」と考えるものが「自分」ということになる。

 

 この思考の連鎖はどこまでも続く。これではアタマの中だけで、自分は何か?と追い続けているだけで、いつまでも「自分は何か?自分はどこにあるのか?」という答えは見つからない。「自分というものは当然あるはずだ」という思い込みから、「自分」というラベルを何かに付けているだけである。それが何であれ、「自分」というラベルを付ければ、それが「自分」になるわけではないのだ。

 

 多くの人は「自分はある」という単純な思い込みから、知識や記憶、感覚、あるいは、考え(思い)、「生きている」というような意識を含めた心や脳や体、あるいは、アタマで想像した何か、例えば、宇宙、空など、何かに「自分」というラベルを勝手につけて、それを自分と思い込んでいるだけである。そして、多くの場合、「この体と心が自分である」と決め付けている。

 

 「自分はある」としたとしても、「自分は何か?」と問うもの自身がソレなのだから、「自分」以外の何かに「自分」というラベルをつけることは矛盾している。それだけでなく、そもそも、「自分」は自分自身に「自分」というラベルをつけることはできないのである。

 

4 要するに、「自分」というものは、いくら考えてみても、理屈では見つけることができないということだ。「自分というものがあるか?」「自分は何か?」「自分はどこにあるか?」などというものは、アタマで追い求めることから抜け出して、体験的事実を捉まえるしかないのである。「在るか?ないか?」は理屈ではない、事実はどうか?ということである。

 

 例えば、時計がテーブルの上にあるかどうか? ということを事実として確認するのと同じレベルである。「自分」があるかどうか?という事実を体験的に捉えることは実は決して難しいことではない。瞑想して、アタマのはたらきを静めて、「自分はあるか?」ということをただ確かめればよい。

 

 考え(思い)もある、意識もある、感覚もある、体もある、呼吸もある、どこからともなく、風の音や鳥の声が聴こえてくる、自動車の音も聞こえる、眼を開けば、木や花や、壁や、テーブルも見える。空の雲も見える、夜空の星や月も見える。それは事実である。しかし、どこにも考える主体というものはなく、どこにも「自分」はない。それが事実である。

 

 繰り返すが、たとえば、考え、あるいは、思いはどこからともなく現れ、そして、一時的に存在しているかのように見え、そして、消えていくものである。考え、あるいは、思いは(たとえ一時的にせよ)存在する。それは事実である。しかし、ただそれだけである。

 

 このように言っても分かりにくいかもしれない。しかし、正しく瞑想すれば、「自分というものがある」という思い込みに惑わされることなく、事実を体験的に捉まえることができるのだ。すなわち、無意識のうちに分別し、ラベルを貼ろうとするアタマのはたらきが、瞑想をすることによって静まれば、これはすぐに分かる事実である。デカルト流に表現すれば、「思う、されど我なし」である。

といっても、かならず瞑想しなければ分からないということではない。「自分はある」という思い込みを棚上げすることができれば、いつでも容易に確認できる事実である。

 

5 もう少し考えてみよう。あなたの友人が時計を買ったとしよう。もし、彼に、「その時計は誰のものか?」と問えば、彼は何も考えることなく、「この時計は自分のものである」と当然のこととして答えるであろう。「買った時計は当然自分のもの(所有物)である」と多くの人が決め付けている。

 

 多くの人は何についてであれ、「それは誰のものか?」と問われれば、「自分のもの」「誰々のもの」「みんなのもの」などと答える。それは所有観念を持っているためである。それでも、「あの星は誰のものか?」と問われれば、「あの星は誰のものでもない」と答えるであろう。

 

 しかしながら、物でも何でも、本来は誰のものでもない。「誰々のもの」というのは、社会において作られた概念、あるいは、個人的な観念にすぎない。したがって、同じ物であっても、社会のあり方によって、「自分のもの」、「国家のもの」、あるいは「みんなのもの」などと一応の約束ごととして規定されているだけなのだ。

 

 「所有」というものが本来的事実として存在しているわけではない。「所有」というものは人間が便宜的に作り出した概念にすぎない。その物自体はもともと「誰々のもの」ということとは関係なくただ存在しているだけである。

 

 時計はあの星と同じように、本来、「誰のものでもない」。ただ時計である。「所有」などない。すべてのものは、そのもの自体として、ただ存在しているだけである。同じように、考えや思いは、ただ考えや思いとして存在しているだけである。「所有」はもちろん、「その主体」もないのだ。所有という意味ではなく、主体という意味の「誰々の」ということはないのだ。

 

 同じように、この体は存在する。それは事実である。しかし、それだけである。「誰々の」ということはない。心についても同じである。すべてのものはただ存在している。それだけである。「自分」というものはどこにも存在しない。主体という意味では、「あなた」も「彼も」「彼女」もどこにも存在しない。誰も存在しないのだ。

 

6 体、心、感覚、意識、自然、風、雲、空、大地、海、山、川、太陽、星、木、花、ネコ、犬、家、テーブル、本などなど、すべては存在する。しかし、それらはバラバラ、つまり、互いに分離した存在ではない。それらは見えない、聞こえない、五感では捉えることのできない、名も付けようもないある一つのもの(Oneness)がいろいろな形で顕現した姿であり、すべての存在の真実は不可分一体である。

 

 「すべては不可分一体である」という存在の真実については、別の機会にあらためて詳しく述べたいと思うが、すべての存在はバラバラであるという思い込み、すなわち、バラバラ観を手放すことさえできれば、誰にでもすぐに分かる事実である。バラバラ観を手放すためには正しい瞑想をするのが近道である。しかし、瞑想しなくとも、日常の生活の中でバラバラ観をちょっと棚上げして、事実を見れば、不可分一体の存在の真実に気がつくことができるだろう。決して難しいことではないのだ。気がついてみれば、ごく当たり前の事実である。

 

7 例えば、庭に出てみる。そこに一匹の小さなアリが動いている。このアリはちっぽけな虫けらなのであろうか? たとえば、この小さなアリを消すことはできるだろうか? たとえこのアリを踏み潰してみても、姿が変わるだけで、アリを消すことは絶対にできない。このアリは厳然として眼の前に存在している。

このアリを宇宙のすべての存在が支えているのだ。そして、この小さなアリが宇宙のすべての存在を支えている。もし、このアリが消えれば、その瞬間にすべての存在が消えてしまうだろう。それどころか、宇宙そのものが消えてしまうのだ。このアリがすべての存在であり、宇宙そのものである。そのようなものとして、アリは厳然として存在している。

 

 このアリは肉眼で見れば小さな存在である、しかし、心の眼で見れば宇宙大である。このアリは小さくも大きくもない。大きい小さいというのは人間の近視眼的な勝手な分別でしかないのだ。

 

 「大小というものさし」で測って「大きい、小さい」というのは、我々の限界のある五感に映った事実の皮相な一面にすぎない。本質的には、大小というものはない。アリだけではない。一人ひとりの人間の存在についても同じである。すべての存在が不可分一体という絶対的な事実の中に存在しているのだから。しかし、そこにも「自分」というコロッとしたものがあるわけではない。

 

8 このように、すべての存在は不可分一体で、もともと一つのものではあるが、その不可分一体のこの部分、あの部分という意味で、例えば、「この木、あの木」、あるいは、「この身体、あの身体」と言うことはできる。そこにはバラバラであるという意味はない。

 

 しかしながら、「自分」という観念は、「自分はもともと他の人々や物から切り離された存在である」という意味を含んでいる。したがって、多くの場合、そこに「自分」あるいは「あなた」「彼」「彼女」と言ったり、思った途端、無意識のうちに、「自分」は他から分離した存在であるという意識が生まれてくる。

 

 したがって、「自分というものはあるか?」ということは「他から分離した自分」というものはあるか?ということを確かめようとすることになる。しかし、「他から分離した自分」であろうと、「不可分一体の自分」であろうと、もともと「自分」というものは存在しない。

 

9 この宇宙のすべてが、五感では捉えられない、名前も付けようもないある一つのもの(Oneness)がいろいろな形やはたらきとして顕現した姿である。

どうしても「自分」という言葉を使いたければ、もともと「自分」といものはないのだから、すべてが「自分」であるということである。すなわち、「あなた」も「自分」、「彼」も「自分」、「彼女」も「自分」、みんな「自分」である。

そして、この花も、あの木も、山も川も、鳥の声も、自動車の音も、あの星も、目の前にある本も、テーブルも、この宇宙のすべてが「自分」である。すべてが一つのもの(Oneness)であり、その一つのもの(Oneness)が「自分」である。

出会うものすべてが「自分」である。他から切り離された「自分」などというものは存在しない。「自分」は宇宙とぶっ続きの生命である。これは理屈ではない、事実だ。

 

10 しかしながら、前述のように、「自分」という言葉は「他から切り離された自分」という意味を濃厚に持っているので、「本来、自分はすべてと不可分一体である」という意味では、「自分」と言うよりも、「自己」、あるいは「本来の自己」、あるいは「真実の自己」などと表現するほうが分かりやすいであろう。

もちろん、日常の生活においては、バラバラ観さえ持っていなければ、便宜上、「自分」、あるいは「あなた」「彼」「彼女」と言う言葉を使うことは一向に差し支えない。要するに、不可分一体の存在の真実をどこまではっきりと体験的に自覚しているかが問題なのだ。     

 

11 禅の語録から。

 釈尊何日にもわたる瞑想の後、ふと明けの明星を見て、曰く。「奇なるかな、奇なるかな。我一切衆生(すべての存在)とともに成道す(悟った)」。

 

 白隠禅師曰く。「衆生本来仏なり」。

 

 達磨大師「そこにいる者は誰か?」と問われ、答えて曰く。「不識(知らない)」。

 

 南嶽懐譲禅師「ここに来たものは何か?」と問われ、答えて曰く。「説似一物即不中(何か一言でもこれだと言ったら、すでに当たらない)」。

 

趙州禅師「如何なるか祖師西来の意(達磨大師がわざわざインドから中国にやってきた真意は何か? すなわち、釈尊の発見した世界とはどんなものか?)と問われて、曰く。「庭前の柏樹子(庭の柏の木)」。

 

南陽慧忠国師「何が仏心か?」と問われて、曰く。「牆壁瓦礫(しょうへきがりゃく。土塀や瓦け)」。

 

 これ以上説明は必要ないだろう。しかし、最後に、少しだけ付け加えておこう。

 実は、釈尊も、白隠禅師も、誰も、今も昔もどこにもいないのだ。さらに言えば、柏樹子も障壁瓦礫もない。まさに、奇なるかな、奇なるかな。

 どこからともなく声が聞こえてくるようだ。「今そう言っているものは一体何ものなんだ?」。しかし、答えるものはどこにもいない。

どうやらこの辺で止めておいたほうが無難らしい。

 

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