開悟の大切さ

開悟の大切さについて

                  

      (ある講演のレジメ)

 

 私たちにとって「開悟の大切さ」ほど大切なものはない。なぜなら、生きているのは自分自身であるからである。その当の自分が何者であるのか、自分の生きるこの世界が何であるのかを本当には知らずに生きることは、自分の思いや気分で生きているにすぎない。

 

 本当に自分を知らず、本当に人生を知らず、本当の生き方をしないことほど愚かなことはなく、実に惜しい一生である。ましてや、人類社会がこのように急速に行き詰まりに向かっている現代、私たちはあらためて本当の自分、本当の世界をアタマでなく、はっきり体験的に捉えることが何よりも重要である。

 

 釈尊はすでに2500年前に大悟され、諸々の人間の苦しみ、社会の混乱の元は無明であり、存在の絶対的真実は不可分一体である、と喝破されている。

 

 では、無明とは何か?私たちは通常、物事をアタマによって認識・判断・思考する。しかし、アタマによる「思い」は相対的なものであり、自と他を別け、物事をバラバラの存在と誤って認識する。

 

 したがって、思いによって認識した事実は、所詮自分の都合で解釈した「事実まがい」でしかなく、「ありのままの事実」ではない。また、思いによって認識する「自分」は、所詮「他とのカネアイ」で自分で勝手に規定している自分でしかなく、真実の自己そのものではない。思いによっては、真実の自己、不可分一体という存在の絶対的真実は捉えることができないのである。

 

 存在の絶対的真実をアタマでなく直接的に捉えるためには、まず第一に、それを何が何でも体験的に捉えるのだという強い意欲が必要である。同時に、正しい瞑想や坐禅によってアタマの思いを鎮めることが肝要である。

 

 とは言っても、私たちの思いの壁は非常に厚く、真実を直接的に捉えることはなかなか難しいことも事実である。体験的に言えば、アタマではどうにもならない問題にぶつかり、もがきにもがいて、とことん行き詰った絶体絶命の状態において、突然アタマ(思い)を超えた意識が働き、不可分一体の存在の絶対的真実が直接的に捉えられるのである。

 

 私の主宰する「自覚のセミナー」も、このような原理に基づいているが、これまでも1週間という短期間で多くの参加者が真実の自己と真実の世界に目覚めている。

 

 いずれにしても、私たちはあらためて「生活する自分」だけでなく、「存在する自分」とは何か、ということを第一のテーマとしなければならないと思う。

 

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2009年5月12日火曜日