論文紹介

この提案に関する論文集

和田重正氏の論文

   『自覚と平和――国家エゴイズムを超えて』
くだかけ社 1987年出版
(131~157ページまで転載許可済)

小林多津衛氏の論文

 シュワァイツァーと世界平和

伊藤隆二氏の論文

学士会会報No.833
(2001年10月号)より転載
『平和省』をつくろう
--「力の論理」から「愛の論理」へ--

 

 

 

和田重正氏の論文
 
 
『自覚と平和――国家エゴイズムを超えて』 
 

和田重正著
くだかけ社 1987
 

<平和創遣活動>

日本国憲法の人類史上の意味


恒久平和に対する人々の真心からの願いを言葉とし、文字に表した日本国憲法があの時、1946・11・3--敗戦後のあの時に国会で採択可決されたのでした。われわれは万感胸に迫る熱い涙の中で「よしっ、やろう」と決意しました。


憲法は国の内外に向かっての基本的政治姿勢の宣言であり誓約なのですが、このようなエゴイズムを超えた立国の根本方針を堂々と成文法の形で言明した国が歴史上一つでもあったでしょうか。


これは単にマッカーサーや連合国などという個人や個人の集合体によって与えられるほど軽い低俗なものではなく、人類進化の途上におけるいのちの大きなはからいによって表現されたものです。それを神の意思と言ってもよい、仏の智恵の催しだと言ってもよいでしょう。ともかく、これだけ思い切った憲法を持った国は他に例を見ません。


この人類史上はじめてみる、真に人問味あふれる大憲法をわれわれ日本国民は採択したのです。しかしその光輝ある未曽有の大憲法をわれわれ日本国民が真面目に実行しようと努力したでしょうか。誰の目にも「否」でしょう。

 

武力立国憲法否定-への誘惑

 

戦後歴代のわが国の内閣は、アメリカの軍閥財閥の、おどしと誘いに乗ってその意に従い自国の憲法を横目で見、「戦力なき軍隊」など三歳の童子をも失笑させるような読弁を弄して国民の耳目をゴマカしながら武力立国への努力を秘密裡に続けて来ました。そして最近に至っては遂に、対ソ戦略上アメリカとの軍事同盟を公言するほどに図太くなりました。そればかりでなく、その政治勢力下にある文部省をして、教科書検定制度の強化に伴い、憲法前文の平和立国宣言に関する最重要部分の削除さえ企てていると公表させるに至っています。これは正に憲法の"外濠を埋める。作業にとりかかったことを意味します。

閣僚や国会議員譜君の中には国会の内外で憲法の平和立国思想を非現実的であると言わんばかりに愚弄する言辞を吐き、国民の目を憲法第九条の魅力から引き離そうと企んでいる者が少なくありません。しかしもっと恐るべきことは、彼等の意図する国民の憲法離れは案外に広く効を奏しているのが事実のように見受けられることです。


実際に国会の内外で論じられる改憲論や軍備拡充論を聞いていると、「これは押しつけられた憲法だ」とか「安保ただ乗りは虫がよすぎる」というアメリカ世論を受けて「独立国は自らの手で国を護らなければならない」などともっともらしい意見や主張が出されるので、それをボンヤリ聞いている一般国民は「そう言えばそうだなあ」と思ってしまいます。そして現憲法の骨髄である「もう戦争は絶対にしません」というわれわれの決意の現実性に疑問を抱かせることになります。

あの敗戦の教訓を無駄にしてよいだろうか

しかしその手に乗ったら、三百余万人と言われる人命と全産業施設の犠牲と引き換えに与えられた戦争否定の教訓を、むざむざと無駄にしてしまうのです。戦争犠牲に関して言うならば、靖国神杜を国家が祀るかどうか、大臣たちが参拝するかどうか、などは末の末の問題です。それより戦争を必要だとする迷妄から人類が脱却するか否かの方が根本的な重大問題なのです。


その点について言えば野党の諸君の問題意識も与党の諸君と同じレベルに低迷していると言わねばなりません。


それはさておき……。

 

問題のすり換え

 

彼等は故意にか無意識でか、問題の所在を巧みにすり換えているのです。


「捨身の決意で、平和的手設によって世界の平和と繁栄に貢献する努力をしよう。それには具体的にどのような方策をとるべきか」これが敗戦日本の与えられ、かつ、自ら選び取った課題であったはずです。それを朝鮮戦争以後アメリカの戦争勢力(即ち軍部並びに産業界経済界の勢力)に迎合するわが国の実力者集団は国民の無知をよいことにして、論議の課題をすり換えてしまったのです。


そして訪米した首相をして、大統領との会見に際して、日本が西側の一員として対ソ戦列に加わることを言明し、日米の軍事同盟を確認するところまで大胆にならせました。


改憲論者は「独立国は自らの軍備によって国の独立を守るべきだ」とか「これは押しつけられた憲法だ」などと論議の焦点を勝手なところへ持って来て国民の目をゴマカしてきたのです。


議論を「独立国は:…」から始めてはズルイのです。それでは日本を元のエゴィズム国家の列に後戻りさせ、それを既定の事実とした上での議論になってしまいます。現憲法制定前のエゴイズム国家ならば「独立国は……」から始まってもよいが、日本国憲法は、そのエゴイズム国家の公理を捨てているのです。


また彼等は「押しつけ憲法」を廃して自主憲法を持たなければ独立国の面目が立たない、などと称して憲法前文と第九条の廃止を企てているのですが、これほど危険な暴言が文化国家で聞かれるとは驚くべきことです。


憲法制定の時の事情を理由に憲法の改廃が行われるものなら、成文の憲法があっても無きに等しい、専制政治を認めることになります。これほどの暴言に対して、一般庶民はいざ知らず、憲法学者さえこれを的確に指摘する者がいない、とはまことに不思議な文化国家だと呆れさせられます。われわれ庶民はここでもう一度眼を開いて、平和を念願する自分の本心を取り戻し、確認し直さなければなりません。-

 

そのすり換えがどうして可能だったのか

 

先に庶民の無知をよいことにして、と言いましたが、その一つとして、民主的議会制についての国民一般の理解の不足が指摘されなければなりません。


本来議会制度には大きな欠陥があります。その最大のものは前にも挙げたように、擬制によって真実を曲げ易いということです。政府が何を企てようが、国民は自ら選んだ政党によっていまさら造られた内閣のすることだから今更文句の言いようがない、とあきらめることになりますが、この論理にはどこか消化しきれないものを誰でも感ずるでしょう。それは擬制と真実がゴッチャにされているからです。国政を政治家諸君に委せたと言っても、国民が主権者としてこれを監視する責任は免れたのではありません。税金をどれだけ取られるか、ぐらいの問題ならば大したことではありませんが、生命も財産も一挙にフイにするかどうかという問題についてばかりでなく、国民の生き甲斐(生存意識)に関する根本問題についてまで委せっ放しにするわけにはゆきませんし、彼等の言いなりにならなければならない道理はどこにもありません。と言っても極端な偏向思想集団の考えるように短気を起こして暴力を振るって制度を破壊してでもわが主張を通そうというのではありません。それでは愚の上に更に愚を重ねることになります。そうしなくてもわれわれにはまだ憲法に保証された自由権の活用によって平和を防衛する道が残されています。

 

日本国民の選択

 

くどくなりますがもう一度確認しておきます。


「平和への努力」か「戦争準備への努力」か。もっと正確に言えば「平和的手段による


平和への努力」をするか、「戦力のバランスによる戦争抑止を狙って軍備の拡充をはかる」か。そのいずれをとるか、という自らの生死、存亡に関わる問題について「前者をとろう」とわれわれ日本国民は憲法の前文とその第九条によって言明したのです。そのわれわれ自身の選択したことを現実化するための具体的努力をわれわれはして来なかったのです。それは政治家の問題であってわれわれ庶民の関わり得るところではないと思っていたからです。しかし気づいてみるとそれは問違いであったし、世界平和の確立に直進する道がわれわれの手にまだ残されていることがわかります。事態がここまであらぬ方へ押し進められて来た今日になってはその修正は極めて困難に違いありません。しかしまだ可能性がなくなったわけではありません。その具体策についての一つの提案をしようというのです。

 

平和とは何でしょう

 

まず平和とは何であるかをきめておかなければなりません。


ここでは「人問同士の奪い合い、殺し合いのない状態のこと」としておきます。

 

どうしたら平和を持続させられるか

 

ただ「戦争しない」という消極的態度では長期の平和は保てません。それだけでは、どこかの国から易々と武力侵略を受けるか、利を以って釣られて貧欲な国の属国にされるでしょう。


わが国の最有力野党の掲げて来た「非武装中立の宣言」が与党から嘲笑すら受け得ない影のうすいものになっているのはそれが極めて観念的、非現実的であるからです。平和はそんな甘い態度で長く保てるものではありません。戦争は、国と国と、民族と民族との扶け合い・補い合いが実行されることによって積極的に防止されます。これはすべての人がいのちにおいて不可分一体であるという人間存在の真実についての理解から出て来る当然の結論です。(詳しくは拙著『もう一つの人問観』地湧社刊参照)

 

その積極状態が実現されるのにはどうしたらよいか

 

話が少し遠回りになりますが----完全に定着した平和を得るためには全世界の人々の人間観が正しく変革されなければなりませんが、今すぐにその状態を得るのには釈迦やキリストが百人ずつ束になって出て来ても足りないでしょう。そうだとすると、今われわれ凡人の成し得ることは不完全ながらも、なんとか壊減的な戦争が起こらないように誠意をつくして工夫するより他ありません。

 

では、平和確保のために庶民によって現在どんなことが提唱され又は行われているだろうか

 

例えば----


■世界連邦を実現することによって永久平和を確保しようとする運動
■国連を強化することによって平和を
■社会主義者共産主義者による平和の絶叫
■宗教者による熱祷
■パグウォツシュ会議、京都会議のような科学者を中心とする人々による核戦争防止の努力も平和運動の一種と見なすことが出来るでしょう。


その他大小様々な集団により、様々な形で平和運動が展開されていると思います。それらはいずれも平和思想の普及徹底に大いに役立っていることは事実であり評価すべきだと思います。


殊に核兵器の撤廃を唱える世界的規模の組織造りを提唱する物理学者たちの運動は平和確保のための突破口としての意義を高く評価しなければなりません。


実際そのような強烈に平和を希求する思想的基盤がなければ、われわれの企てるこの平和創造の工事も、その土台を欠くことになって一場の夢物語に終わります。


しかし例えば、世界連邦運動をとってみても、世界連邦が実現すればその人たちの言う通り戦争はなくなるでしょうが、世界連邦を実現させる具体的手段が欠けているように思います。


つまりこの道には平和の高台に通ずる梯子が欠けているのではないかと思われるのです。それを承知してか否かはわかりませんが結果としては、名士参加の善人集団で、自己満足に役立つ社交団体というところに止まるのではないでしょうか。


知識人あるいは国際人の企てる多くの運動も、この世界連邦の人々と共通の、現実認識の誤謬があるのではないかと思います。


殆どすべての平和運動はこのいずれかの誤りに固執しています。


また平和を叫び、祈ることは平和の重要さを人々の心に訴え、己れの心に確かめるのに有効であるに違いありませんが、叫びや祈りだけでは平和は絶対に確保されません。暴力というものの本質を理解すれば、それは明らかです。叫びや祈りから一歩出て何らかの具体的行動に移らなければ単なる精神運動に止まってしまいます。

何故平和が絶叫され熱祷されても、それだけでは平和は確保されないのか

各国の戦争勢力を構成する人員の実数はその国の国民総数に比すれば極めて僅少です。恐らく○・一パーセント以下ではないでしょうか。日本の実際の状況では真に戦争勢力に含まれるのは精々十万にも満たないのかも知れません。それは総人口の〇・〇一パーセント以下ということです。その実数はこのように僅かですが、その人々は国家社会における実力者ばかりです。経済力を把握し、武力をも支配している実力集団です。


この集団は財力と権力を最大価値と見る人々によって構成されていて、戦争の危険を冒しても財力と権力の増大を図ります。この集団には、一般庶民の願望も祈りの心も殆ど作用しません。そのことは内外の過去の歴史が明らかにしているところです。

この戦争勢力を無力化することは出来るだろうか

われわれ庶民が再軍備反対をどんなに唱えても、また軍事予算を削って福祉と教育にまわせばよい、などと叫んでも戦争勢力に油を注ぐことになるだけで、その勢力の猛威を鎮圧することにはなりません。真向から挑戦すれば庶民の心情などは、ひとひねりにひねりつぶされてしまうのがオチです。


そういう効果のないことを焦ってするより、マドロッコシイけれど別次元での工作によって戦争勢力の生気を枯らす方策があればその方が現実的のような気もします。つまり戦争勢力の栄養源となっているわれわれ庶民が、栄養を供給しないことにすればよいと考えられます。ところがこの名案も残念ながら実行不可能であります。

 

実力者の支配下に生きている庶民

 

現に大部分の庶民は戦争勢力の支配下で収入を得て生活しているのだから、それを離れたら食えなくなる、という現実があります。それをどう解決するか、というのが問題です。われわれは、食わずに理想に殉ずることは出来ません。そうだとすれば、差し当り、理想と現実の矛盾に苦しみながら現職に止まるより仕様がありません。現職にありながら理想に向かっての努力を可能な範囲で続けて行くより他ないのだと思います。

理想の下に生きる

そのように実際には不本意ながら戦争勢力培養の栄養を供給することになっていても、もし人々が大きな理想につながって生きていると自覚したとき、その人は苦難や不本意の中にあっても、どんなに生き甲斐を覚えるか知れないと思います。今日多くの庶民は大きな理想につながることなく、仕方なしに目前の小さな欲望の満足を追ってその日その日を送っているのが実状ではありませんか。僅かの立身出世や金銭的利益を追い、マイホームの中に楽しみと安心を求めて生涯を終わるのが大部分の庶氏の生き態ではありませんか。もしその願うところのものを思い通りに手に入れたとしても内心の空しさはどうすることも出来ないでしょう。


それに反して、五十億の人々と共通の願いと理想を抱き、その実現のために献身しているのだとの自覚を得たならば、どんな苦難の中にあっても人々は大きな安らぎと生き甲斐を覚えるに違いありません。そして人々のその生き甲斐の自覚の集積が平和創造の具体的方法を生ずることになります。


われわれの企てる平和創造の道は単刀直入ではなくむしろ甚だ遠回りの現実妥協の道に違いありませんが、この道を一歩でも半歩でも平和確保に向かって着実に歩みさえすれば、この世界とわれわれ自身の崩壊は辛うじて免れることになるに違いないと確信するのです。

平和と福祉

そこでわれわれは平和と福祉という二つのことを絡めてわれわれの願望とし、理想として大衆の前に掲げることは出来ないだろうか、と発想するのです。

どんな形で?

国是----国家の基本的姿勢の定めとして世界人類全般の福祉増進に国力を投ずることによって平和確保を実現しよう、という方針を定める。


この方針を実行するためには、国家のあらゆる活動に大きな変革が加えられなければなりません。これが実現するということは右翼、左翼の企てる△△維新や赤色革命などのような中途半端な変革ではなく、人類が未だかつて経験したことのない根本的な徹底変革を意味します。

そのような変革が実際に可能なのだろうか

 

勿論可能です。


人類始まって以来、今日に至って初めてこの変革の可能な時代が到来しつつあるのです。


(詳細は別稿『母の時代』地湧社刊に譲るとして)ともかく、科学文明と生存競争必然観.その発生源である孤立分断的人間観これら一連のことによって人類は今日厳しく生存の危機に立たされています。核兵器、食品公害はじめ各種公害など肉体破滅の倶れぱかりでなく、同時に青少年の精神の急激な荒廃劣悪矯小化、生命の連帯感の喪失を指摘しなければなりません。


しかしこの物心両面の行き詰まりは一面、人々の生活に新たな局面の転回を促すことにもなっています。この苦難な道を通って数千年来不可能と考えられて来た大衆の生活革命が可能になって来たと考えられます。

この大変革の実現には条件がある

この未曽有の大変革は特殊な条件を具えた特殊な国家社会においてでなければ起こり得ない。


その大変革はまずエゴイズムを国家経営の基本的公理とする国においては、不可能です。その公理を棄てた国だけがこの大変革実現の可能性をもっています。その先駆的役割を担う国家を中核として世界の全国家群は急激に変貌するでしょう。

何故国家でなければならないのか


そこでまず、この変革の先鋒は何故国家によらなければならないのか、という疑問が起こるかも知れませんが、それは現在の人類社会では国家が主権という絶対権力を持つ特殊な法人格として認められているという事実に基づく発想なのです。(この主権の絶対性は実はタテマエであって実際の扱いはタテマエ通りには行われてはいませんし、近い将来このタテマエも大きく崩れるでしょうが、今日の問題を考えるときにはこのタテマエを勘定に入れておくのが有利だと思うのです。)


実際個人ないし私設集団による福祉行為はその行為者がどんなに純真で熟烈で強力であっても、その効果は限られていて、世界平和を積極的に強化する力にはなり難いのが現実です。アメリカの青年たちによる平和部隊、宗教団体や宗教者個人の献身的奉仕、篤志家による医療奉仕などいろいろ涙ぐましい活動が行われています。少し前にはシュワィツァー博士、近くはマザーテレサなど心から尊敬すべき人々のはたらきも国家の行為でないために厳しい制約下に置かれ、その行為はその行為だけのはたらきに限られてしまうのが現実のようです。


世界の恒久乎和の実現を願っての福祉活動となるためにはいずれかの国が、国家自身がシュワィツァーであり、マザーテレサであり、インド救癩の宮崎松記博士でなければならないのです。現在の困際社会では国家主権の活動は私人のそれとは異なった重みを認められているからです。純粋な国家的福祉活動が大々的に行われた例は知りませんが、わが国に関わる政府保証の大開発事業は今までにも数々あります。しかし、それが私企業の採算を見積っての事業であれば相手国の国内事情の変化でひとたまりもなく放棄しなければならないことがあり、双方にとって安定性を著しく欠くことになります。イランの石油、鉄道の開発事業、インドネシァのトウモロコシ栽培、アルミ鉱開発事業など無数の苦い体験例があります。それらは要するに私企業という弱みからくる欠陥の結果でしょう。


日本には青年海外協力隊という半国家灼奉仕集団があります。これは大いに拡大されなければならない貴重な活動体だと思いますが、今のところ国策全体の中でみれば、片手問仕事の域を脱していないように見受けられます。しかし、この事業の一画としてわれわれの考える平和創造活動が取り上げられたならば最も効果的であると考えられるし、もし、その可能性がないとしてもこの集団の人々の経験は後に述べられるわれわれの計画を進めるためには最も貴重な資料を提供してくれるに違いないと思います。

どこの国が世界福祉の実行を国家経営の主軸として掲げ得るか

それはいろいろな面で莫大な実力を具え特殊な条件に恵まれた国でなければなりません。現在エゴイズムを国家経営上の公理とする国家群の中にありながら従来の考えでは非常識と思われるであろう、このことをなし得るのは敗戦国、そして非武装をタテマエとし、知能的に優れた、勤勉な国民を一億も擁する経済大国日本より他にありません。それはまた、世界に類のないお人好しの集団であり、地理的、歴史的条件によって特殊な総合文化を開いた文化消化力抜群の人々の集団でもある無類の国家であります。


そればかりでなく、全人類の自由と福祉のために貢献することによって国の独立を保って行こう、という崇高にして雄々しい決意を表明する成文憲法を持った国は人類の歴史始まって以来他に例がありません。


この前代未聞の栄光に満ちた憲法は決してマッカーサー、天皇、吉田茂、幣原喜重郎その他の如何なる個人によってももたらされたものではありません。その個人の頭脳や行動を通したかもしれませんが、その源が人類進化を支配する大いなるいのちのはからいにあることは疑う余地のないところです。


また再軍備論者の主張する自主憲法なるものは、一体どのくらいえらい人の発想になる“自主”なのだろう。それを主張する人々の我執、傲慢はむしろ潮笑に値するものではありませんか。

実際問題としては

しかし、実際には武力立国へ向かってここまできてしまった今、直ちに国家の実践課題として自衛隊を警察予備隊に戻し、福祉立国を正面に掲げることが出来るでしょうか。周囲の状況がそれを許しません。それより、国政を現在担当する実力集団即ち戦争勢力が健在である限りそれは不可能であります。

迂遠な道を

そこで大変遠回りではあるが、実践意欲をもって福祉立国を中心国是として掲げるに至る前にもう一段の予備段階を設けようというのがわれわれの考えなのです。

予備段階とは

世界福祉国家の実現を胸に描きながら、その理想を公に掲揚することを念願する人々によって、平和世界建設の下準備をはじめよう、というのです。そしてその準備のために、まず貧困と病魔に苦しむ人の多くいる国の実状について調査研究をしなければなりません。その調査研究の協力者の集合と組織化が出来ればそれがこの運動の第一歩となります。

予備段階のカ

調査研究は確かに予備段階ではありますが、この集団活動がある程度に活発になれば、それだけでも人類は戦争の危険からかなり遠ざかることになります。殊に防衛力の乏しい日本を他国が侵略する危険性はかなり少なくなります。それはこの活動のあり方が人問集団存在の真実のすがたに合致しているからです。

調査研究の内容

世界の大国はケンカ支度のために莫大なお金と知識と技術と人力を注ぎ込んでいることは周知の通りです。一方、五億もの人々が慢性飢餓状態にあることも周知の事実です。この二つの事実を並べてみて不思議に思わない人があるでしょうか。しかも大国の多くは過去数百年間、その餓死線上をさまよっている人々とその祖先の人々を人間とも思わず徹底迫害搾取し暴虐の限りを尽くして来たのです。その罪の意識のヘンリンでもあればケンカ支度の一部を割いて窮民の援助に回わしそうなものだと誰しも思うでしょう。ところがそのようなことが行われたという話は聞いたことがありません。これは善良なる一般庶民にとつてはむしろ信じ難いほど不思議な事実ではありませんか。


むろんアメリカもソ連もそれぞれに後進国への援助をしていないのではありません。しかしその援助は無条件ではありません。直接問接に何らかの軍事的ないし産業経済的見返りを目当てに行われています。最近日本からの東南アジアヘの援助も直接の軍事目的があるとは言えないでしょうが石油輸送ルートの確保や一種の国際的スタンドプレイというつもりがないとは言えません。過去の侵略に対する償いの意味さえあるかどうか。


困っている隣の人に何か持って行ってあげたいのが人情でしょう。そういう素朴な人情的行動を、国と国との問になると一体何が阻んでいるのでしょう。われわれはまずそこから調べてみなければなりません。その妨げとなっているものは援助国、被援助国双方の側にあるのでしょう。それは習慣・制度などの他、道義感あるいは宗教に関する精神的なものの相違であるかも知れません。


その実状調査のためにはこちらから出かけなければならないし、そちら側の国の人々にも来てもらわなければなりません。またアメリカやソ連や西欧諸国などの人々も協力のため馳せ参じてくれるかも知れません。そうなるとこの研究機閑所在地附近には世界中の人々が軒を並べて住むことになります。

国内機構の改変

このような他国、他民族への奉仕を最重要国是として実行しようとすれば、エゴイズムを国是とする従来の国家機構とは全く異なった機構が要求されます。それは現在進行している行政改革などの比ではない大変革になります。政治産業教育に至るまで、その骨組みから変わらなければなりません。ですから、それがどのように行われるべきかをあらかじめ検討しておくことも必要です。


要するに従来行われて来た弊習をことごとく改めようというのですから生易しいことではありません。しかし日本国民はこれを成し遂げるだけの能力を具えていると思います。


その準備活動に取りかかったら大変な忙しさになろうかと思いますが、その忙しさこそ(戦争準備の忙しさと違って)日本国民を甦らせ、若人の眼の輝きを増させることになるでしょう。

戦争の危機を先へ引きずる

国家自身が公式に世界福祉国家を名乗り実行に着手するに至らなくても日本の多くの庶民がこの提案に共鳴し、各々その分に応じた協力をすることになれば(それが実際には、まだ低い段階にあったとしても)世界の平和愛好者たちはこの集団に注目するでしょう。

こうして全世界の善良なる庶民が平和国家日本を祝福するようになれば、核爆弾を一万発ずつも構えて恐怖のとりこになっている大国の戦争勢力もおのずから浮き上がつて自然衰滅ということになるでしょう。


その方向への動きが目に見える形で始まりさえすれば、なんとか戦争の危機もズルズルと先へ先へと引きずって行くことが出来ると思うのです。

戦争の恐怖がいつ世界から消えるか

しかし大国の戦争勢力の白然衰減が十年や二十年で実現するというわけではありません。今からその方向への動きが具体的に始まったとしても、戦争勢力が無力化し、人類から戦争の懸念が全く消滅するのには百年単位で数えるほどの年月を要するでしよう。それは、夢のような話だけれども、あり得ることだと思います。しかもそれはキリストの再来、弥勒の下生の予言より数十億年早く実現するでしょう。


でも、そういう遠い未来のことは別として、もしわれわれのこの平和創造活動がはじまり、ある規模(百万人とか二百万人?)にまで成長したら、それは核爆弾確保による戦争抑止より遥かに人きな抑止力としてはたらくに違いありません。

 

間に合うだろうか

このような遠い道を歩んでいては、核爆弾その他の磯減兵器を用いる第三次世界大戦勃発を防ぐのには問に合わないのではないか、という考えも浮かびます。なるほど、間に合うか否かはやってみなければわからないことです。わからないけれども、間に合う、というより、間に合わせることが出来る、という判断をわれわれはもっています。

まず、あなたに訴える

そのために、まずあなた一人が、この平和創造活動は何を提唱しているのかを深く理解して下さるのが一番の早道です。


国家.人類の運命といってもわれわれ一人々々とかけ離れた、手の届かぬ問題ではありません。また、それは誰の問題でもありません。あなた自身の問題であります。あなたが日本を新生し、あなたが人類の破減を回避するのです。観念を放棄して事実を正観しましょう。


あなたがやるそうすれば、あなたの手の届く新文化創造の道であることがわかるでしょう。

この活動には排他性がありません

前にも挙げたように、いろいろな集団によって平和運動、反戦運動が行われています。それらはそれぞれ平和と戦争について独自の昆方を持っており、独自の方法による独自の道を歩みながら共通の平和確保に向かっているので、それらの運動も活動もみな仲問内の行動であると考えております。どこかの人たちのように平和を口にしながら、主義主張が違うからと言って互いに他を非難し合って分裂したのでは何をしようとしているのかその真意を疑いたくなります。われわれは、方法が違うから、考え方が異なるからと言って他を白眼視するほど狭量ではありません。


著者略歴
明治1907年生まれ。旧制浦和高等学校から東京帝国大学法学部を卒業。戦前は東京西荻窪で「一誠寮」を、戦後は小田原「はじめ塾」を、昭和1967年からは山北町に「一心寮」を設け、一貫して青少年と共に生活をし、人生を語る。
1965年、「みんなで国に『国際福祉国家』の理想を掲げよう」という「平和創造活動」を提唱。さらに、同行教育・人生科を提唱。
1993年没。


著書
『葦かびの萌えいずるごとく(正・続』(柏樹社)(絶版)
『国家エゴイズムを超えて』(柏樹社)(絶版)
『自覚と平和ム国家エゴイズムを超えて』(くだかけ社)(絶版)
『人生科』(くだかけ社)
『いのち・やすらぎ』(くだかけ社)
『生きることを考える本』(地湧社)
『もう一つの人間観』(地湧社)ほか多数

  


小林多津衛氏の論文
 
 シュワァイツァーと世界平和
 
 小林 多津衛
 


 シュワァイツァーは最も優れた哲学者、神学者であり、バッハ音楽の一流の研究者、演奏家であり、アフリカ原住民の病苦を救うため、赤道直下のランバレネで五十年間も献身された医学者であるという、いわば大山脈で、私はその麓であおぎみているようなものであって、シュワァイツァー日本友の会会長野村実先生から与えられた「シュワァイツァーと世界平和」という題は大変で、到底その任ではありませんが、シュワァイツァーの教えをもとに考えてみたいと思います。

 

 シュワァイツァーの平和思想の根底には二つの柱があると思います。一つはシュワァイツァーの倫理の根底である「生の畏敬」であり、その二はシュワァイツァーの思想の基盤にある「人類意識」だと思います。


シュワァイツァーは次のように申します。


 「私は生きようと欲する生命であり、生きようと欲する生命にとりかこまれている」


 「生命に思いをひそめることによって、私は私のまわりの一切の生命意志を、自分自身の生命意志と同等のものとして、神秘的な価値として尊重しなければならないと感ずる。だから善とは生命を守り、うながし、最も高い価値に高めようとすることである。これは善の根本理念であって、生命を亡ぼしたり、そこねたり、その発展を妨げたりすることは悪である」(著作集第六巻「人間の思想の発展と倫理の問題」172ページ 白水社)

 

 シュワァイツァーがすべての命あるものの生命を畏敬せよと言われ、生命を亡ぼし、傷つけることは悪であると言われていることを深く心に留めたいと思います。一九一四年に第一次大戦がアフリカへ伝えられた日の夕方、夫人とともに捕虜として黒人兵士の監視下におかれ、黒人に「キリストの愛を説く白人がどうして殺し合う戦争をするのか」と聞かれ、答えに窮し、苦悩の日々を過ごした翌年、オゴエ川の舟上で「生の畏敬」の閃光を受けたのでした。ヨーロッパの哲学、倫理思想が人間が殺戮しあう戦争の悪をやめることができないのはなぜか、善の根本は何かを長い間苦しみ探求した末に、シュワァイツァーの心底にさした光が「生の畏敬」でした。今までのヒューマニズムには三原則があるといわれています。


 人間の生命の尊重、人間の価値の尊重、人間の創造の尊重ですが、シュワァイツァーは人間のみでなく、すべての生き物の命を畏敬せよと言い、すべての生き物と大調和して生きよと言われます。ひなたにいてあぶないみみずを見たら日陰に移してやれ、水におぼれそうな虫を見たら救いあげよ、無駄に一本の野の花を折るなと申します。まして人間が人間を殺す戦争を座視していることはできません。シュワァイツァーの世界平和祈願の根底はこの「生の畏敬」だと思います。


シュワァイツァー思惟の基盤には常に「人類意識」があります。狭い古い国家主義や民族主義が、いかに人類に禍害をもたらしたかを見て、人類全体の運命に深い関心と憂いをもっています。


 シュワァイツァーは、未来への希望はあるかと尋ねられたのに対し次のように答えています。「希望は一つあります。すなわち、われわれは、見失った本道に引き返さねばなりません。こんにち行われている愛国心の代わりに、全人類にとって恥ずかしくない目標を持つ高貴な愛国心を、偶像化されたナショナリズムの代わりに、共通の文化を持つ一つの人類を、真の理想主義を欠いた社会の代わりに、文化国家への新たな信仰を、われわれが落ち込んだ状態の代わりに、すべて人をむすびつける文化人類の理想を、人生のはかない事物に心を奪われている状態の代わりに、真の文化の発展と理想への関心を、真実の精神性をすっかり失ってしまった心の代わりに、進歩の可能性への信仰を立てねばなりません。(中略)これらの課題はこんにちの我々の課題であります」(著作集六巻「水と原始林のあいだのインタヴュー」313ページ)


 シュワァイツァーのこの言葉に接しますと、われわれは、人類的立場に立って、個人としても、国家としても、人類としても根本的に反省しなければならないことを切に感じます。偶像化されたナショナリズムのために二回の世界大戦おこし、人間同士殺しあい、生の畏敬に反して二千万余の生命を亡ぼしました。真実の精神生活を失って、倫理・文化を退廃させ、人類的立場に立っての真実の理想を失って、悲しむべき、恥ずべき犯罪的な戦争原因をつくりました。


 人類的立場に立って人類の運命を憂え、世界平和を切願した人にシュワァイツァーとその親しき友ロマン・アランがあり、ロランが敬愛した友ガンジーがあります。シュワァイツァーは生の畏敬(VENERATIO VITAE)と言い、ロランは「戦いを超えて」(AUDESSUS DE LA MELEE)を書き、ガンジーは非暴力(NON VIOLENCE)と言って、平和実現の基礎理念を明示しています。


 この三人は迷妄に陥った人類を「見失った本道に引き返させる」ために、天が地球に送ってくれた人類の師と思います。


 シュワァイツァーの言うように、人類的立場に立って、人類の理想である世界平和を求めることは、我々一人一人に課せられた課題であることを深く省みたいと思います。


 先覚者は過去百年間の人類の最大の収穫は「人類意識」の目覚めだと申します。人類意識は以前は思想家や宗教家の頭に観念としてあったが、現在は多くの人によって現実的なものになったと言われています。核が人類の存亡にかかわる時代を迎え、平和問題一つ考えても、一国や、二、三の同盟国による実現が不可能なことは明らかですし、公害問題、資源問題、食糧問題、人口問題等を考えましても、人類的、地球的立場での探求努力なしには、何一つ根本的解決の不可能な時代を迎えているわけです。にもかかわらず、各国の政治首脳者も国民も国家エゴイズムを脱することができず、前時代的感覚で動いているのが現状ではないでしょうか。シュワァイツァー等に虚心、学ばなければと思います。

 


 シュワァイツァーが世界平和について述べた主なものには「現代における平和の問題」と「平和か原子戦か」であると思います。


シュワァイツァーがノーベル平和賞を受けた時の記念公演は、「現代における平和問題」で、このオスロー講演を我が国の野村実博士がシュワァイツァーに招かれて直接聞いています。


 シュワァイツァーは右の中で国家の形成と領土問題の歴史から説きおこして現代史に及び、第一次第二次両大戦に力を振るったのは「悪質な国家主義」であると言っています。また現代の戦争が過去のそれと違い、比較にならない殺戮の惨禍になったことを説き、「第二次大戦においては二千万人が殺戮され、原爆によって都市の全地域が住民とともに無に帰した」と言い、このような非人間的な、生の畏敬に反する行為を、「なす所なく成り行きに身をまかせることによって我々自ら非人間性の罪をおかしている」と言い、「恐ろしい経験を共にしたことによって、われわれは戦争のもはや存在しない時代をあらしめる一切のことを意識し期待するよう奮起せねばならぬ」と切言しています。


 シュワァイツァーはまたこの講演で世界平和に努力した人々をあげ、支那の老子・荘子等の大思想家、エラスムス、カント、サンピエール、ルソー等に触れ、過去の平和論者の願いは一種のユートピアとみなされていたが「こんにちの事態は、人類滅亡を欲しないなら、平和の理念が実現されなければならないところへ来ている」と、強く言われています。


 シュワァイツァーは原爆の危険を痛感し、晩年、毎夜二時間を原子研究にあて、ゲッチンゲン大学の十八名の学者やラッセル等に学び、人類の前途を深憂し、一九五八年四月二十八日から三日間、ノルウェー国営放送から五ヶ国語で全世界に訴えたのが「平和か原子戦か」であります。日本が原爆の悲惨を受けた国であることから、ノルウェー放送の前に日本で発表されるよう野村実氏にその原稿を送ってきています。この訴えは三部からなり第一は「核兵器実験停止」で核実験の禁止を詳説しています。


 シュワァイツァーは今ある危険を新たな実験によって高めることは許されないと次のように言っています。


 「実験の無害宣伝に致命傷を与えたのは、アメリカのリヌス・ボーリング博士が一九五八年一月十三日に UNDの事務総長に提出した世界各国の学者九二三五名の声明である。この声明において彼らは、核兵器実験によって間断なく送り出される放射能は地上のすべての地域に対して、ことに後代に奇形児をつくることは次第に数を増していくであろうから、じつに重大な危険を意味するものである。・・・・フランスの有名な生物学者で遺伝子学者のジャン・ロスタンは、このような実験を続けることは、未来に向かって行われる犯罪であると称している。」実験がいかに危険であるかを思い、無関心でいてはいけないと思います。


 訴えの第二では、原子戦の危険を具体的に述べています。大型水素爆弾の熱度は一億度と言われ、爆発の結果生じる致命的な放射能汚染は四万五千平方キロに及ぶであろうと言い、米ソの保有量は五万個に及び、そのうち十五個ないし十個で、イギリスや西独やフランスなどはおしまいになってしまうかもしれないと言っています。勝者も敗者もなく、第三者もすべて絶滅に陥れる原子戦を始めるものはないかもしれないが、シュワァイツァーは「われわれが万一の偶然によって実に馬鹿げた仕事で原子戦に陥ってしまう可能性がある」と言い、錯誤の危険を深く憂えています。


 東京大学の坂本義和教授も「核時代の国際政治」の中で錯誤による原子戦の危険を実例を挙げて説き、アメリカのレーダーにソ連機来襲のごときものが現われ、あわやというとき、それが大量の流星群であることが分かったこと、原爆を積んだ飛行機が七回も事故を起こしている事実をあげています。坂本教授は次のようにも書いています。


 「さわやかな初夏の朝日を浴びて夫や子供が出かけていってから数時間後に、突然一家バラバラのまま地獄絵のような死の世界に投げ出されてしまうといった可能性が、実は現在国際政治の構造的要因になっているのである。これは決して(戦争ノイローゼ)ではない・・」


 シュワァイツァーは、「原子力の装備によって敵国を恐れさせ、これによって平和を維持するという理論などは、こうも戦争の危険が増大している今日、もはや問題にならない」と言っています。恐怖の均衡的平和論ほど危険なものはないわけです。

 

 訴えのその三は「最高水準の折衝の必要」を説いています。


「原子兵器の装備の競争を愚かにも続行して人類の危険な道を歩むことをやめ、原子兵器を放棄して将来の繁栄を」もたらすため、政治的の首脳者でなく、人類を不合理性・非人間性から救う知恵と勇気を持った最高水準の人が集まっての話し合いを提唱しています。


 各国にはシュワァイツァー、ロラン、ガンジーの志を継ぐ熱意ある人がいると思いますし、平和研究・平和運動については世界的にまた各国に組織があり、多くの学者や一般人が努力しているわけですが、それらの人々が協力して、実りある会合がいっそう熱心にもたれるようになり、その中から最高水準の人が話し合い、影響力が強まれば世界平和実現に強い力強い前進になると思います。そういう盛り上がりを促進するもとは、我々一人一人が平和問題に関心を持ち努力し合うことが大切と思います。シュワァイツァーの「現代における平和の問題」と「平和か原子戦か」は万人必読のものと思いますので、短い引用では意を尽くせませんので、まだ方は直接二書に触れられるようにと思います。

 


 シュワァイツァーは次のように申します。


 「すべての人間は、自分自身の思考する世界観によって誠実な人格となるべき使命を持っている」(著作集第六巻「文化の週頽廃と再建」二百九十一ページ)


世界平和実現の道においても、自分自身の思考する世界平和実現の道を自ら求めて努力することは「われわれ各人に課せられた課題」ではないでしょうか。


われわれはシュワァイツァーの次の言葉をもとにわれわれ自身平和問題の探求を進めたいと思います。


 「平和のために尽力しているすべての人達の名において、私はあえて諸国民に、新たな道の第一歩を踏み出さんことを懇願します。・・・われわれの経験した恐ろしい戦争の清算がこのようにして始められますなら、諸国民の間に信頼が芽生えはじめるでしょう。信頼はすべての企てに対して最大の資本であります。これなくしてはどんな有益な仕事も栄えません。それはあらゆる領域において、成功の前提であります」(著作集第六巻「現代における平和の問題」200ページ)


この「信頼」がいかに重要な世界平和実現のかぎであるかを考えてみたいと思います。


 世界平和実現の手近な道は、軍備の縮小であり全廃であり、危険な核兵器の放棄であることは明らかです。


 1978年国連で画期的な軍縮会議が開かれ、日本から五百人もの民間人が1869万余人の署名を持っていき、核の廃止と軍縮を訴えました。小諸市の前市長小山威雄さん夫妻も行かれ、帰ってきてのお話に、開発途上国の人々は熱心に聞いてくれたが、米ソの代表は核問題にも軍縮にも耳を貸さなかったそうです。国連の軍縮会議は立派な「軍縮宣言」や「行動計画」を採択しましたが、それにもかかわらず、軍備増強が進み、1978年には米国1051億ドル、ソ連製1438億ドルとのことです。最近我が国に米国が軍備増強を申し入れてきている始末です。


 平和を願う世界の多くの人々の熱望している核の廃止も軍縮もできないのはどういうわけでしょう。言うまでもなく国際間に不審・疑惑・脅威があるからです。それを善意と信頼と親和に変えていく具体的な努力なしには核問題も軍縮も解決できず、世界平和も実現しないと思います。シュワァイツァーの言うように「信頼」なしにはどんな有益な計画も成功しないでしょう。


 国を守る道に二つあるといわれています。一つは疑惑を原点にしている道で、一国が軍備増強やれば、それに脅威を感じる他の一国も軍拡をしていき、いわゆる恐怖の均衡によって国を守ろうとする道です。この方向は歯止めのない軍拡になり、核時代の現在、先覚者が深く憂えているように錯誤の危険をはらみ、この道では決して恒久平和に至ることができないことは明らかです。この道は畢竟は国を守り得ない道ではないでしょうか。


 軍縮ができない原因に、軍需産業と軍、官との関係を指摘する学者がいます。この点も深く検討されなければならないと思います。先覚的な学者は武器産業をやめても一国の、また世界の産業体制を健全に保ちうる道を説いています。


国を守るもう一つの道は国際間に善意を育て、信頼と親和を生むことを積極的に努めて、国際間にある疑惑、脅威を取り除き、国を守ろうとする道です。


 英国のロンドン大学の教授で有名な物理学者であるJ・D・バナールは万人必読と思われる平和問題の好書「戦争のない世界」の中で、軍事費は人類最大の浪費であり、世界の軍事費の四分の一を発展途上国の飢餓・疾病・文盲に当てれば、二十年で世界の姿は変わると言っています。


 自衛隊の三次防当時の計算ですが、日本キリスト教海外医療協力会がネパールへ岩村昇氏らを派遣しての医療奉仕の費用は年額二千万円と聞きましたが三次防の四分の一を使って発展途上国に医療班を送るとすれば、一か所一億円としても千二百ヵ所へ医療班を送ることができます。


 自衛隊は所沢に医科大学を開設して一般国民の治療にも当たっていますが、これを拡大強化して世界の診療に奉仕したらどうでしょう。


医療はそれぞれ自国で行うようになるのが望ましいので、発展途上国のための医科大学を自衛隊内に設けたらどうでしょうか。


 人類の三分の二は飢餓か栄養失調に苦しんでいると聞きますが、自衛隊内に農業大学を設け、世界の必要国に奉仕の道を開いたらどうでしょう。文盲が衛生状態や産業発展をさまたげていますので発展途上国のための教育大学を設置したらどうでしょう。


 太平洋戦争で奈良や京都を爆撃から救ってくれたラングドン・ウォーナーは、その国民の手仕事の物を通しての理解が相互の敬愛を深め、世界平和のもとになると言っています。文化交流のための施設も必要でしょう。


 宗教が争いのもとになり、古くは十字軍の戦争、近くはガンジーの死のような不幸の元になることもあります。世界の宗教が精純化され、ヒューマニズムの、また生の畏敬の広場に出てきて、世界平和に貢献するようになれば、人類に好ましい視野を広げることができると思います。そういう宗教大学がほしいと思います。世界に善意と信頼を生む道は外にもいろいろ考えられると思いますが、自衛隊はこの信頼を生み、創り出して国を守る道を積極的に進めてはどうでしょうか。


国を守るというと、武力の増強のみを考える方向は時代遅れと思います。


 太平洋戦争前、日本は国を挙げて軍備増強に努め、思想統一をし、経済制裁をし、教育を皇国民養成一本に絞り、総力を挙げて戦ったにもかかわらず完敗し、三百万余の生命を滅ぼしました。


 現在の日本は、「生命の尊重」の思想が多くの人々に芽生えていて、教育・思想・経済等を戦争に向けての一本に統制することは絶対にできません。日本は平和に徹するよりほかいかなる安全な道もありません。善意と信頼をつくり「生の畏敬」と「非暴力」によって国を守りうる道のあることを深く思い見るべき時代を迎えています。


 「信頼」による平和実現の見地に立つとき、私はインドでガンジーとともに生活し、ガンジーの非暴力の教えを深く体得し、ガンジーに敬愛された藤井日達上人の「不殺生戒」という一文を思います。上人はその中で、もし万が一日本が奇襲された時は、日本の指導者は侵入者の武器の前に丸腰で並び立って、合唱礼拝して平和交渉に取り掛かれ、日本の男女は後に続け、もし侵入者が無慈悲に銃砲爆撃を加えて来たら、そのときは従容として枕を並べ死地に就け、これこそ世界恒久平和建設の犠牲であり、世界人類の危険苦悩を救う菩薩行であるというのです。そして上人は、この道は他国民を一人も殺すことなく、並び立っている人々は死すとも、武器を持って戦うのに比べれば、千分の一、万分の一であろうと言い、武器があればあるほど死者は多くなると申します。日達上人の師ガンジーは、インドを苦しめた米国人の髪の毛一本も傷つけるなと言い、絶対非暴力と悪への非協力でインドの独立を勝ちとりました。


 日達上人の言うこの捨て身の道は極端な理想論と見る人もあると思いますが、先に述べた信頼で国を守る道も、上人の非暴力の道も、実はすでに日本国憲法が明示している道で、日本としては迷うことなく選択した道であることを深く思いみるべきであります。


 日本国憲法の前文と第九条を虚心読み直してみたいと思います。

 

 日本国憲法前文から


「日本国民は、恒久平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われわれの安全と生存を保持しようと決意した。われわれは、平和を維持し、専政と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは全世界の国民がひとしく恐怖と欠乏から免れ平和のうちに生存する権利を有することを確認する。・・・・」

 

 日本国憲法第九条


「日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と武力による威嚇または武力の行使は国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」


「前項の目的を達するため陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は、これを保持しない。」

 

 憲法前文の道は明らかに「信頼」の道であり、第九条は明らかに「生の畏敬」「戦いを超えて」「非暴力」の道であり藤井日達上人の菩薩行を覚悟しての道であります。


 われわれは憲法に書いてあるから、それに従うのではなく、われわれは理性と良心に照らして自ら考え、シュワァイツァー等の先覚者の教えを深く省み、日本憲法前文および第九条が雄大であり真実であって、日本の安全を守るのみでなく、人類に恒久平和をもたらす貴重な礎となるものであると信じるから、この憲法を尊重し堅持して生かさなければならないと思うのです。

 


 日本を完全に守る道であり、人類の存続と繁栄を確実にする道は何かと考えますと、それは地球上から戦争を絶滅させ、核を全部廃棄する道を求めるよりないでしょう。それには、先覚者がすでに説いているように世界連邦または世界政府の実現をはかるよりないと思います。シュワァイツァーの言う「共通の文化をもつ一つの人類を」、「すべての人を結びつける理想」を実現する道は、人類が一体となって人類を守ろうとする世界連邦の実現よりないと思います。


 世界連邦の実現は可能であります。もし世界連邦の実現は不可能であり、空想だと思う人は、そう勝手に思い込む前に、エメリー・リーヴスの「平和の解剖」を、「ラッセル・アインシュタイン宣言」、笠信太郎の「いかにして二十世紀を生き延びるか」、湯川秀樹、朝長振一郎、坂田昌一の「平和時代を創造するために」、「核時代を超える」、谷川徹三の「世界連邦の構想」、南原繁の「平和の宣言」等を虚心読破して考えられ、その上で論議していただきたいと思います。「意志のあるところに道がある」と申します。平和実現への意志がないならいかなる道も開けません。


 世界連邦の実現には必要な前提があります。それは国際間にある、不信・疑惑・脅威を善意と信頼と親和に変えて行く具体的努力です。信頼を破るどんな小さなことでも慎み、信頼を生むためにはどんな小さいことでも積み重ねていくべきだと思います。私は一九七一年に「善意を世界に・平和実現への具体化へ」という一書を出し、国際間に善意を育って信頼を創ることによって世界平和の基盤を培う道を、諸先覚者の教えをもとに、いろいろ具体的に書きました。そして日本は「赤十字国家」を国是として立ち、善意を世界に送り平和に徹することによって世界一体への道を開くよう訴えました。周知のように赤十字はアンリー・デュナンの提唱によって、戦時に敵味方なく人道的立場に立って傷病兵の治療に当たることから始まったのですが、現在は平時においても、健康の増進、病気の予防、災害の救済等人類の福祉に貢献する世界的機構になっています。日本がこの赤十字精神に徹して、紛争地や災害地に奉仕するばかりでなく、疾病、飢餓、文盲の救済等に国連旗のもとで総力を挙げて挺身努力するなら国連軍が編成され、世界の治安に軍隊が出動するような場合でも、日本は武器を持たず、赤十字医療班として参加し任務を果たすことは認められ、憲法前文・第九条の精神を貫くことができると思います。国連は日本に徹した平和憲法のあることを承知で加盟を認めたのですから。世界連邦が実現した場合でも、日本は武器を持たず任務を果たすべきです。平素から善意の努力なしには、武力なくして国を守る権威は生まれない道理です。中立外交とか、等距離外交とかを超えて、積極的に善意を画期的に積み、平和への道を打開すべき時代を迎えていると思います。

 


 日本が平和憲法の精神をゆがめず、「信頼」を原点として立ち、赤十字国家を国是とするとき、自衛隊は当然変容しなければなりません。


現在の自衛隊は専守防衛と申しましても、「疑惑」を原点としており、殺戮を訓練する場であるわけですから、「生の畏敬」「戦いを超えて」「非暴力」の原点に立ち、平和憲法の「信頼」育成を基盤とするものに順次変容すべきものと思います。急激な変化は摩擦を起こして危険ですから、国民世論を啓発し、世界の理解を深めながら遂次変容すべきものと思います。人をあやめる訓練から生命を畏敬する姿に、毛虫が美しい蝶に変容するように。


 前に申しましたように「信頼」を育てるいろいろの施設、医科大学、農業大学、教育大学、宗教大学、文化大学等を自衛隊内に置くことに賛同しない人があるかもしれませんが、「信頼」で国をたてる道があるということを世界に知らせ、世界の軍隊に反省を求めるための施設が自衛隊内にあることがもっとも適切であると思います。もし自衛隊がこのように変容するなら私は自衛隊費は現在の二倍三倍になってもよいと思います。


 自衛隊については東京大学の坂本義和教授が、発足当時の警察予備隊程度に縮小しても現在の安保体制よりはるかに日本の安全度を増す具体策を述べています。虚心検討すべきものと思います。もし坂本義和教授案が行われれば、現在の自衛隊予算の多額が前記の「信頼」を育てる方向の費用にふりむけることが可能になるわけです。真に平和を求むる精神があり、創造的な発想が行われるなら「信頼」育成への道も世界連邦実現の道も開け得るものと信じます。H・G・ウエルズは世界連邦の実現について申します「これを信ずる人々はそれだけ早く、こういう時代のくることを助けるものである。これを信じない人々はこういう時代の来ることを遅滞せしめるものである」と。

 


 人間と他の生物との違いについて、シュワァイツァーは次のように言っています。


「生命の畏敬と、他の生命との共通体験ということは大きなできごとです。自然界は、生命への畏敬を知りません。・・・生き物は、生への意欲だけはありますが、他の生物において起こっていることを、ともに体験する能力はありません。生き物は苦しみますが、ともに苦しむことはできないのです。」


「すべての生き物は、暗闇の中に生きなければなりませんでしたが人間だけが、抜け出して、光を見ることが許されました。人間は生命への畏敬の認識に達することが許され、体験と苦難とを分かち合う認識に達することが許されました。」(著作集第二十巻「倫理的な諸問題と生命の畏敬についての第二の説教」423ページ)

 

 

追記一


 世界平和にとって極めて危険な、ソ連軍のアフガニスタン侵攻を考えましても、私は世界連邦実現の急務を思います。ソ連は寒冷地多く、食料その他資源確保のため南へ勢力を伸ばすことを常に企ててい、米国も自国の勢力範囲を拡げることを目標に動いています。その他の国々もすべて国家利己主義と疑惑を原点として動いています。この抗争が増大すれば戦争の狂愚をくりかえす危険があり、核時代の現在、人類絶滅の恐れのあることは先覚者の警告しているところです。


 世界連邦が実現し、人類的立場、地球的構想で、全人類が等しく欠乏と恐怖からまぬがれ、有無相通じ、全人類が真実の文化に生きるようになれば、他国へ侵入する必要もなく、それに抗争することもなくなるわけです。世界連邦の実現は、その可能性を具体的にエメリー、リーブスその他がすでに提示しているのです。どうしてそれを顧みないでしょう。

 

 追記二


 本文で東大坂本義和教授が自衛隊を初めの警察予備隊程度に縮小しても、現在の安保体制よりはるかに日本の安全度を増す具体案を示していると書きましたが、詳細は坂本教授の「核時代の国際政治」を見ていただくことにして、その要点は、日本にとって中立的なスイス、スウェーデン、ノルウェーという国の軍隊を国連軍の平和維持軍として日本に駐留してもらい、自衛隊はその部隊と一体となれというのです。米ソのような対立感情のある軍の駐留は摩擦を生じやすいので避けた方がよいと言っています。世界の各国が自国のみの軍隊保持をやめ、国連軍の駐留で平和を守るようになれば、世界平和に近づく一歩と思います。


 敵対感情のある一方の軍が駐留していると、もしもの場合攻撃を受ける恐れがありますので危険をともなうと思います。


 坂本教授は国際間の緊張が解けて平穏になれば駐留軍でなく、国連の平和委員会が駐留すればよいようになるだろうと言っています。

 

追記三


 本文で「信頼」を破り「脅威」を与えるようなことはどんな小さいことでも慎み、「信頼」と「親和」を生むためにはどんな小さいことでも積み重ねるべきだと書きましたが、日米共同で上陸訓練をしたり、海上演習など派手にやりますと、脅威を感ずる国は北方の島に軍備を増強することになります。米国中心に環太平洋合同演習(リムバック)が一発何千万円ものミサイルの発射訓練など派手にやれば、それに脅威を感ずる国は、その対応策を講ずるようになり、世界一体で全人類を守るというような願いから遠ざかります。日本憲法で念願している恒久平和に近づくことは不可能になると思います。人類は平和問題をはじめあらゆる面で大転換期を迎えているのではないでしょうか。雄大高貴の構想を持つ政治家がどうして、日本にまた諸国に生まれないのでしょう。国民の多くが雄大高貴の理想を持つようにならなければ、政治家も目先のことにのみあくせくする矮小なものになると思います。(北佐久郡望月町協和)

 

 


著者略歴
1896年(明治29)生れ。
16歳で小学校の代用教員。
18歳の時、長野師範学校に入学。ロマン・ロランを読み、図書館で柳宗悦著『ヰリアム・ブレーク』に出会い驚嘆。「白樺教師」として迫害を受け、勤務地を幾度も変わる。
1945年、岩村田小学校長、
翌年北佐久教育会長。
「北佐久郡志編纂会」責任者を務める。
柳宗悦、バーナード・リーチ氏らを迎え講演会開催。以後、柳・リーチ・浜田庄司・片山敏彦氏らと交流を深める。佐久民芸展を毎年開催。
1957年故郷に戻り、平和と民芸の大切さを訴え、地域文化の発展に尽力。
1971年、「国是として日本を赤十字国家に」と提唱。
小林多津衛略歴 (著書「平和と手仕事」参考)

著書
『平和と手仕事ム小林多津衛104歳の旅』
小林多津衛の本編集委員会 (ふきのとう書房)ほか


平和と手仕事 多津衛民藝館 長野県佐久市望月
TEL 0267-53-0234
多津衛民藝館 望月窯


http://www.city.saku.nagano.jp/kankou-k/outdoor/taiken04.html

 


伊藤隆二氏の論文
 
 
『平和省』をつくろう ─「力の論理」から「愛の論理」へ─

 
 伊藤隆二氏
学士会会報No.833(2001年10月号)より転載
 

 

(1.)
 人は皆、世界の平和を望み、誰もが平和に生きたいと願っています。その望みや願いは‥‥生きることの根幹をなすものであることから、最近、「平和的生存権」という概念が生まれています。平和を望み、平和に生きるのは基本的人権だ、という意味です。しかし、誠に残念ながら、「平和的生存権」は有史以来、完全に保障されたことがありません。それどころか「人類の歴史は戦争の歴史であった」といっても過言ではありません。


 なぜ人は戦争するのでしょうか。その要因は多様ですが、単純化すれば、自分(自国や自民族)が相手(他国や他民族)よりも多くの利益を得たいと望み、それが阻止されれば攻撃する、それが戦争の主要因といってもよいでしょう。そして攻撃する方が相手よりも強ければ、多くの利益を得ることになります。それは「力の論理」といわれます。今、その「力の論理」を廃棄することが求められているのです。


 では、いったい戦争の利益とは何でしょうか。かつて日清戦争に勝利し、意気軒昂のわが国が、無敵帝政ロシアといえども、必ず打ち破ることができる、そして「東洋永遠の平和」を実現する、と為政者が高唱し、国民の聞にも日露開戦論が高まっていた最中の1903(明治36)年に、内村鑑三は『万朝報』(同年6月30日付)誌上に「戦争廃止論」を発表しました。「戦争の利益は強盗の利益である、(中略)盗みし者の道徳は之が為に堕落し、其結果として彼は終に彼が剣を抜て盗み得しものよりも数層倍のものを以て彼の罪悪を償はざるに至る、若し世に大愚の極と称すべきものがあれば、それは剣を以て国運の進歩を計らんとすることである。(中略)戦争廃止論の声の揚らない国は未開国である、然り、野蛮国である。」

 

(2.)
 では、人類が「大愚の極」と称すべき戦争を性懲りもなく繰り返してきたのはなぜだったのでしょうか。私は、これまでの教育が誤っていたからだ、と結論したいのです。


 太平洋戦争が終った、その翌年、中学生になった私が、何の迷いもなく、将来は教育の世界に身をおき、正しい教育を推進することを決意したのは、国民学校六年生であったときに住んでいた町が米軍機によって空襲されて焼け野原と化し、千人近くの住民が死傷したのを目の当たりにし、子ども心に戦争の愚かさが身にしみたからでした。そして、二度と戦争を起こさない社会を築く人間の教育に取り組むことを一生の仕事にしたい、と望んだのです。


 その私が学生時代に内村鑑三の「非戦論」を知り、また彼の弟子の矢内原忠雄の「平和教育論」を学ぶことで、いよいよ平和をつくり、平和に生きる人間の育成こそを他のすべてのことに優先しなければならない、という信念を強く抱くに至りました。そして「力の論理」によって虐げられている人たち、いわゆる弱者が幸福に生きられる社会の実現のための教育の研究に打ち込み始めました。


 しかし、現実の教育の根底には依然として「力の論理」が深く根を張っていて、強者が弱者を踏み台にして己れの利益を得ることを目指す人間に仕立てる教育が猛威を振るっています。「受験戦争」という流行語はそのことを象徴しています。そのことは他の先進諸国においても同じです。例えば英国の評論家・リード(Herbert Read)が1949年に著した『平和のための教育』で次のように嘆いていました。「われわれは、現在の教育によってわれわれの子供たちを、競争の激しい分裂した社会に適応させようとしている。攻撃本能はすばらしい機会を与えられている。が、その攻撃本能は、他の子供たちに向けられているのである、席次と成績と進級のために、休むことを知らない闘争がつづけられている。つまり、われわれは人間に差別をつけるために???分裂させるために教育を行っているのである。こうして、われわれのすべての努力は、社会の分裂をつくりだすために費されているわけである。」

 

(3.)
内村鑑三に戻ると、彼の訴えにもかかわらず、日露戦争が、さらにわが国が三国同盟の一つとして参加した第一次大戦が勃発したことを心底より憂えた彼は、1926(昭和元)年に「戦争のない文明」を築こう、という趣旨の論文(英文)を発表しました。「いつの日か日本は、50年前に武土の武装を解除したように、軍備を放棄し、国家としてのモ新しい文明モを全世界に布告することを祈願する。」


 それは戦争放棄をうたった『日本国憲法』(以下、「憲法」)が制定される20年前のことでした。


 一方、同じ頃、米国ではボーラー(W.E.Borah)による「戦争非合法化」運動が起こり、また、仏国では「パリ平和条約」案が提出されていましたが、ついに1946(昭和21)年2月3日に、わが国は世界で初めての、戦争の永久放棄、軍備・交戦権の否認を宣告した「憲法」を制定し、公布したのです。人類史上の快挙といってよいでしょう。


 吉田内閣の文部大臣として「憲法」の国会審議に携わった田中耕太郎は当時、国会において次のように述べています。「戦争放棄は、西洋の聖典にもあるように、剣を以て立つ者は剣に滅ぶと云う原則を根本的に認めることだ、(中略)仮に日本が不正な侵略をうける場合があっても、それに対し抵抗することによって被る莫大な損失を考えると、日本の将来の為に戦争放棄を選ぶべきだ、(中略)戦争放棄は決して不正義を認容するという意味をもたない、(中略)個人の人格の尊重に基づく共同の福祉に貢献しうる人間を養成することが教育の目途であり、理想である。」


 後に首相になった石橋湛山は「わが国はこの憲法をもって世界国家の建設を主張し、自ら其の範を垂れんとするもの」であり、その瞬間、もはや日本は敗戦国ではなく、「栄誉に輝く世界平和の一等国に転ずる」と明言しました。


 この「憲法」を高く評価し、われわれは見習い、恒久世界平和の礎にしなければならない、と主張する外国人がふえてきています。例えば、ノーベル賞を受賞した、ハンガリー生まれの生化学者・セント=ジェルジ(Albert Szent=Gyorgyi)は次のように述べています。「政策遂行の手段としての戦争を否定し、軍隊を保持しない日本は、もし一国の安全ということがあるとすれば、全世界でもっとも安全な国です。」

 

(4.)
 元米国上院外交委員長のフルブライト(J.W.Fulbright)もまた、同様、日本に強く期待していました。


「日本ほどの大国が政治目標として非武装、非軍事国家に徹する姿勢を守ってきたことは他に類例がなく、世界史的にみても今日、非常に意義が大きい。(中略)私は日本の平和憲法とそれに基づく国連中心外交、非武装政策を最も高く評価する一人だ。私が望むのは、日本が大国にふさわしい知恵と金と設備、人材を提供して、世界平和のための貢献をしてほしいということだ。平和維持に軍事力以外の方法があることを身をもって示し、米国に範を垂れてほしい、と願っている。」


 さらに駐日米大使であったライシャワー(Edwin O.Reischauer)は「平和憲法はいつの日か世界平和を照らす灯明となるだろう」と書き遺していました。平和運動家のダグラス・ラミス(C.Douglas Lummis)もまた、「世界の平和運動の先頭に立ち、『平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占め』る国民は、膨大な軍備を抱え込む国よりも安全であると信ずることによって道を探りうるという、この考えは現代の常識に反する。だが現代の常識は狂っている。(中略)私はこの日本の常識はむしろ、健全な世界における普遍的な常識となると考える。(中略)冷戦が始まっていらい今ほど、世界の世論が日本人の平和主義の声に耳を傾けようとしている時代はない」と明言しています。


 もう一人の平和運動家のオーバービー(C.M.Overby)は1991(平成3)年以来、「日本国憲法第九条」を「地球憲法第九条」にする運動(「第九条の会」)を展開しています。その一つの提案として、どの国も「良心的参戦拒否国家」になって、その代替奉仕サービスとして、例えば人口増加を抑える、世界飢餓と貧困を克服する、通常兵器の輸出入による移転を止める、非暴力行動と紛争解決の啓蒙を行うなど、11項目を挙げています。そして特筆すべきことは1999(平成11)年5月にオランダのハーグで開かれた主催の「ハーグ平和市民会議」で、「憲法」第九条を「21世紀の平和と正義への課題」として採択し、「各国議会は日本の憲法第九条を見習い、自国政府に戦争をさせないための決議を採択すべきである」という文言を「公正な国際社会のための基本10原則」の第一項に掲げられたことです。機が熟しつつあるのです。

 

(5.)
 この機に臨み、私はわが国政府が『平和省』を設置し、恒久世界平和の実現のために総力をあげて寄与することを提案したいのです。その『平和省』は、例えば次のような部局から構成されます。


「平和研究局」=人類史を繙き、これまでに勃発した戦争を徹底的に分析し、人間が戦争する諸要因を解明し、戦争が二度と起こらない方策を研究する。そのためには平和研究に真撃に取り組んでいる内外の学者を嘱託にして、国際的規模での大掛かりな研究体制をつくる必要がある。

 

「軍縮促進局」=核兵器はいうまでもなく、あらゆる武器を地上からなくすための方策を打ち立てる。そのためにはまずもってわが国が「憲法」第九条の規定を守り、今、所有している武器を全廃することで範を垂れ、世界の国々に自ら武器を捨てることを促す必要がある。

「平和維持局」=世界のどこかで飢餓や災害など、援助を必要とする事態が発生したときは直ちに出向き支援する。そのためには予め人材を養成し、人とものを輸送するための船や飛行機などを用意する必要がある。現行の自衛隊を「平和維持隊」に編成替えすることをすすめる。

「平和留学生援護局」=諸外国から平和研究を目的とした留学生を受け入れる制度をつくり、その世話をする。そのためには米国の「教育交流計画」(フルブラィト制度)を参考にし、特に発展途上国からの留学生を多く迎える。留学生は帰国後、各自の国で平和活動に励むことが期待される。

「平和教育局」=幼児期から平和な世界をつくる人間になるための教育を推進する。また、平和維持のために活躍する人材養成も担当する。そのためには「平和は人なり」の格言どおり、まずもって教育に当たる人(親・教師など)自身が非暴力に徹し、あくまでも平和に生きる人間である必要がある。家庭教育・学校教育の目的は平和を愛する人間の形成にあることを普及徹底させる。


 わが国政府は、世界の諸国に対して、それぞれの国の政府にも『平和省』の設置を呼び掛け、やがて各国の『平和省』が連繋し合い、世界的規模での平和の創造に尽くすことを訴える役割を果たすべきです。同時に、各国の一般市民間の「平和交流」を盛んにする必要もありましょう。

(6.)
世界で初めて原爆を投下され、戦争、特に核兵器を使用した戦争のおぞましさが骨身にしみた日本人の一人ひとりに対して神は「恒久世界平和を創造する者になれ」という‥‥特別の使命を与えられました。その具体的な指針が「憲法」です。然り、この「憲法」は世界の「宝」です。そのことを知った諸外国の人びとは、例外なく、日本人がその‥‥特別の使命を真摯に果たすことに大きな期待を寄せます。


 しかし、日本政府には未だに『平和省』が設置されていません。また、日本の学校は平和を創造する人材の育成に積極的に取り組んでいません。それどころか、いたるところに「力の論理」がはびこり、勝者のみが礼讃されています。今から50年以上前にH・リードが嘆いた「競争の激しい分裂した社会に適応させ、さらに人間に差別をつけるための教育」が猛威を振るっています。


「力の論理」がはびこっているのは日本だけではありません。「強い国」は競って軍備を拡張し、他国に睨みを利かせ、恐怖感を煽っています。それらの国では「富国強兵」のスローガンを堅持しています。表画的には平和を装っていても、一皮むけば覇権主義は見え見えです。世界中の人びとの「平和的生存権」が蹂躙されているのです。私たち日本人は「力の論理」で動いている世界を、誰もが互いに人格を尊び、赦し合い、扶け合うことを正義とする「愛の論理」による人類共同体に転換させる役割をしっかり果たすことが、今、世界中から求められているのです。(文中、敬称を略しました)

 


著者略歴
伊藤隆二 (http://jushinsha.com/writer/ito-ryuji.html より引用)


昭和9年2月3日、秋田県に生まれる。昭和33年、東京大学教育学部(教育心理学科)卒業。昭和38年東京大学大学院博士課程修了後、京都大学医学部と米国カリフォルニア大学(UCLA)精神神経学研究所で研鑽。神戸大学教授、横浜市立大学教授を経て、現在は東洋大学教授。


著書
知能病理学に関する専門書のほか、『この子らは世の光なり』『なぜ「この子らは世の光なり」か』『この子らに詫びる』『子どもへの最良の贈りものとは』(樹心社)、『福祉のこころと教育』(慶応通信)、『心の教育十四章』(日本評論社)などがある。